スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その2)
「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント」に、瀬川先生が書かれている。
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むかしたった一度聴いただけで、もう再び聴けないかと思っていたJBLのハーツフィールドを、最近になって聴くことができた。このスピーカーは、永いあいだわたくしのイメージの中での終着駅であった。求める音の最高の理想を、鳴らしてくれる筈のスピーカーであった。そして、完全な形とは言えないながら、この〝理想〟のスピーカーの音を聴き、いまにして、残酷にもハーツフィールドは、わたくしの求める音でないことを教えてくれた。どういう状態で聴こうが、自分の求めるものかそうでないかは、直感が嗅ぎ分ける。いままで何度もそうしてわたくしは自分のスピーカーを選んできた。そういうスピーカーの一部には惚れ込みながら、どうしても満たされない何かを、ほとんど記憶に残っていない──それだけに理想を託しやすい──ハーツフィールドに望んだのは、まあ自然の成行きだったろう。いま、しょせんこのスピーカーの音は自分とは無縁のものだったと悟らされたわたくしの心中は複雑である。ここまで来てみて、ようやく、自分の体質がイギリスの音、しかし古いそれではなく、BBCのモニター・スピーカー以降の新しいゼネレイションの方向に合っていることが確認できた。
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ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでも、
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れはわかるというもの。
なぜ瀬川先生はハーツフィールドに、「イメージの中での終着駅」を見いだされていたのだろうか。
ハーツフィールドは、JBLのスピーカーシステムの中でも、ひときわ光を放っている。
どんなスピーカーなのかわからずハーツフィールドの写真を初めてみた瞬間、
私の中にも憧れは生れていた。
ハーツフィールドを置けるだけのしっかりしたコーナーを用意できれば、
それはつまりそれだけの財力があるということでもあるわけだから、
ハーツフィールドが似合うコーナー、そういう部屋で音楽を聴く、ということは、
一般的な日本住宅で生れ育った私にとっては、リッチなアメリカという異文化への憧れでもあった。
でも私にとっては〝理想〟のスピーカーではなかった。
強い憧れを抱くスピーカーではあってもだ。
けれど瀬川先生は、〝理想〟のスピーカーと表現されている。
その〝理想〟のスピーカーの音を聴き、求める音でないことを気づかれる。
《それだけに理想を託しやすい──》と瀬川先生は書かれている。
ハーツフィールドを〝理想〟のスピーカーとされたのは、なんだったのだろうか。
「スピーカーを選ぶ」とは、瀬川先生にとってはどういうことだったのだろうか。