手本のような音を目指すのか(その7)
時計の秒針の音も、生活音のひとつである。
スタジオの様に高い遮音性のリスニングルームでもないがぎり、
音楽を聴いているときに、なんらかの生活音が耳に入ることはある。
生活音にはいろいろある。
人が発する音もあれば、機械が発する音もある。
その中で、時計の秒針は規則正しく音を発している。
この「規則正しく」が、私にとっては生活音から生活雑音へと、
そんなふうに意識してしまうところがある。
もちろん常に、というわけではないが、何かの拍子にひどく気になりはじめる。
なぜなんだろう? と昔から考えている。
けれど、これといった答らしきものは見つかっていない。
それでも今回Aさんとの会話の中で、このことが出てきて、
あらためて考えている。
いま書いていることと関係しているようにも感じているからである。
そんなのは単なる偶然でしかなくて、
にも関わらず私が何らかの意味を求めてのこじつけのようなことかもしれない。
読まれている方の中には、そう思われている人もいよう。
でも私はそうは思っておらず、
時計の秒針の音と記録のような音との関係性について考えているところだ。