Date: 1月 28th, 2017
Cate: 音楽性
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「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)

ドキュメンタリーは、いわば記録である。
そう考えると、テレビは記録を写し出すに適しているのかもしれない。

映画でもテレビでも、ドラマがある。
映画でのドラマとテレビでのドラマの違いは、
記録を写し出すに適しているテレビでのドラマであり、
一方の映画は、記録ではなく記憶を映し出す、と考えれば、
同じドラマであっても、テレビでのドラマと映画でのドラマの違いが、
浮び上ってくるような気がする。

記録と記憶。
写し出すと映し出す。

そんなことを考えているところに、ステレオサウンド 130号を開いていた。
このころのステレオサウンドには、勝見洋一氏の連載があった。

「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
フェデリコ・フェリーニの、この言葉が映画の本質を見事言い表しているとすれば、
記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、映画は必要としていない、となる。

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