Date: 11月 12th, 2022
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日本の歌、日本語の歌(その7)

日本語の歌における日本語の流暢さは、
歌そのものが与えてくれる情景に、どれだけ関係しているのだろうか。

その5)で書いているように、
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いて、そういう人はけっこういる。

ホセ・カレーラスの「川の流れのように」をかけても、
まったく同じことをいう。

そんなことを言う人と私の、日本語の歌の聴き方はずいぶん違うわけだ。
私だって、流暢であればそのほうがいいとは思うけれど、
たいして、そのことが気になるわけではないし、気にすることもない。

それよりも、日本人の歌手(流暢な日本語)による日本語の歌よりも、
それまで聴きなれていた、とおもっていた日本語の歌に、
新しい輝き(もっといえば生命)を吹き込んでくれたように感じる。

だからこそ、多少日本語がまずかろうと、そんなこと気にせずに聴く。
歌の本質とは、そういうもののはずだ。

そして思うのは、まず流暢な日本語かどうかをすごく気にする人と私とでは、
音楽の聴き方(捉え方)が違うわけだから、それは音の聴き方(捉え方)も違う。

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