薬師丸ひろ子の「戦士の休息」
ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、
黒田先生が、薬師丸ひろ子の歌について書かれている。
*
よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
*
黒田先生は1938年生れだから、この時48歳だった。
いまの私は58になった。
そして、いまでも薬師丸ひろ子の歌を聴いている。
薬師丸ひろ子の歌は、それ以前に聴いている。
それでも、自分でディスクを買って、というわけではなかった。
私が最初に買った薬師丸ひろ子のディスクは、
黒田先生が80号で紹介されていた「花図鑑」である。
しばらくは頻繁に聴いていた。
その後は、パタッと聴かなくなった。
十年ほどしてから、また聴きたくなった。
一度、どれかの曲(歌)を聴いてしまうと、またしばらく頻繁に聴く。
そして、またしばらく聴かなくなる、ということをくり返してきた。
最近、また聴くようになった。
「戦士の休息」を、よく聴く。
最初に聴いた時から、いい歌だ、と思っていた。
薬師丸ひろ子の歌に興味のない人でも「セーラー服と機関銃」は、
どこかで耳にしたことがあるだろう。
「セーラー服と機関銃」と「戦士の休息」の歌詞は、男側の歌詞である。
それを薬師丸ひろ子が、黒田先生がいわれるところの
《決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによって》
歌われることで、あきらかになる世界がある。
ほかの人はどう感じているのかわからないが、
「セーラー服と機関銃」、「戦士の休息」を聴いていると、
薬師丸ひろ子の歌に、少年っぽいところを感じてしまう。
少女っぽいところももちろん感じているのだが、
その陰に、少年っぽいところが、この二曲ではあるからこそ、
薬師丸ひろ子の歌でなければ、と感じてしまう。