タンノイはいぶし銀か(その12)
昨晩のブログを書き終って、
五味先生の「いい音いい音楽」の数本を読み返していた。
「むかしのカラヤンは素晴らしかった」の冒頭に、こう書いてある。
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カラヤンは低俗だと前回評したら、抗議の投書がかなりきたので、なぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、舞台に登場する人物の科白およびその生きざまはすべて脚本に規制され、すぐれた劇は、舞台で役者の登場をまたずとも脚本を読んだだけで、いい芝居だとわかるものだし、ストーリーのどのあたりで芝居はドラマティックになり、劇が高揚するかも、脚本でわかる。ところが、下手な役者にかぎって、ストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見得を切り、どうだとばかりに力演する。つまり低級な演技である。すぐれた役者は、そういう場面ではむしろ芝居をおさえ、さりげなく演じるから燻銀のように演技は光り、ドラマの感動も深い。
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ここに「燻銀」が出てくる。
演技についての「燻銀」ではあるのだが、
大見得を切らない表現で音楽を聴かせるということでは、
確かにタンノイ(同軸型ユニットを搭載したタンノイに限定)は、いぶし銀といえる。
けれど日本のオーディオマニアのあいだでの「タンノイはいぶし銀」は、
音色に関連してのことだけのように感じられ、
つい「タンノイはいぶし銀か」というテーマを書いているわけだ。