「はだしのゲン」(その12)
五味先生も「バルトーク」の中で書かれている。
《およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。》
そうだと思う。多くの人がそう思っていることだろう。
なのに聴き手に何かを自白させる──精神的な拷問──ために音楽をかける、
それも自白を要求する者と自白を強要される者とが、ここでは同じである。
こんな理不尽な音楽の聴き方は、本来の音楽の聴き方とはいえない──、
そう思う人のほうが多いだろうけれど、ほんとうにそうだろうか。
自分自身に精神的拷問をかける──、
ここにオーディオを介して音楽を聴く行為の、もうひとつの姿が隠れている。
そのことに気づかず、音楽を聴いて浄化された、などと軽々しく口にはできない。
忘れてしまいたい、目を背けたい、そういったことを己の裡からえぐり出してくる。
それには痛み・苦しみ・気持悪さなどがともなう。
つまり、バルトークの、ジュリアード弦楽四重素団による演奏盤は、
五味先生によって、「毒」でもあったのかもしれない。
こんな音楽との接し方・聴き方は、やりたくなければやらずにすむのがオーディオである。
毒など、強要されてもイヤだ、まして自らすすんで……など、どこか頭のおかしい人のやる行為だ、
世の中の趨勢としては、はっきりとそうだと感じている。
そして増えてきているのが「毒にも薬にもならない」──、
そんなものである。