「はだしのゲン」(その8)
いま聴くことができるバルトークの弦楽四重奏曲のすべてを聴いているわけではない。
自分で購入して聴いてきたもの、友人・知人のところに行ったおりにたまたま聴く機会があったもの、
レコード店にてあれこれ見てまわっているときに、たまたまかけられていたもの、
インターネット・ラジオを聴いていたら、たまたまかけられたなどによって、
いくつかの弦楽四重奏団によるバルトークを聴いてきた。
それらの中には、五味先生がもし聴かれたら、
「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」、
「気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ」
と思われただろうか──、そんなことをつい思ってしまう演奏もある。
そういう弦楽四重奏団によるバルトークが「歇んだとき」、
五味先生は「ホッとした」のだろうか。
どんな弦楽四重奏団による演奏であれ、
バルトークの弦楽四重奏曲が、ほかの作曲家の弦楽四重奏曲に変るわけはない。
五味先生がバルトークの弦楽四重奏曲に感じられた、いくつかのことは、
バルトークの音楽だからであるから、であり、それがジュリアード弦楽四重奏団による演奏盤であったからである。
私は、そう考えている。