手がかり(その5)
われわれオーディオマニアの大先輩のひとりである池田圭氏は、美空ひばりを聴け、といわれていた。
このことは瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
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「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
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音楽は、すこしばかりの背伸びをしながら聴いていくことで、
音楽の世界はひろがり、音楽の奥深さを知っていくこともある。
背伸びしてきく聴くことを最初から放棄してしまっていては、
世の中には、ひとりの人間が生涯をすべてを音楽を聴くことのみに費やしても、
聴き尽くせぬほど多くの音楽が生まれてきている。
どんな音楽好きといわれる人でも、これまで生れてきた音楽の一割も聴けていないのかもしれない。
それだけ多種多様な音楽があるからこそ、聴き手は背伸びして聴くことがあるし、それが求められることもある。
けれど音の良し悪しを判断するときに背伸びしていたら、足下が覚束なくなる。
そんな状態で確かな音の判断ができるわけがない。
ここでも、自分の音の世界を拡充していくために背伸びしていくことは当然必要である。
でも、それは音の良し悪しを判断することとは異ることだ。
瀬川先生の「聴感だけを頼りに……」から、もうすこし引用しておきたい。
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良い音を聴き分けるにはどうしたらいいか、と質問されたとき、私は、良い音を探す努力をする前にまず、これは音楽の音とは違う、この音は違うという、そう言えるような訓練をすることをすすめる。ある水準以上の良い音を再生して聴かせると、誰でもまず、その音の良いということは容易にわかる。その良さをどこまで深く味わえるかは別として、まず良いということがわかる。ところが反対に、音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪い、とはっきり指摘できる人が案外少ない。この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳を作るには、少なくともある一時期だけでも、できれば理屈の先に立たない幼少のころ、頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう方がいい。成人して頭が先に音を聴くようになってからでは、理屈抜きに良い音を身体に染み込ませるには相当の努力が要るのではないかと思う。
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大切なことを書かれている。
このことを忘れてしまっている人、気づいていない人が残念なことに少なくない──、
私は最近そう感じることが多くなってきた。