手がかり(その7)
オーディオの経験を積んできたから、
グラシェラ・スサーナの歌を最初の手がかりとしたことは間違っていなかったし、
むしろ、そのことがもたらしてくれたものが確実なステップとなっていった、と明言できるのだが、
オーディオをやり始めたときは、迷いに近いものがあったし、
それこそ若者特有の背伸びしたい(そうみせたい)気持もあって、
グラシェラ・スサーナの歌よりもクラシックやジャズが上位にあって、
そういう音楽で音を判断していかなければならないのではないか、と思わないではなかった。
1977年秋、ステレオサウンドから別冊として「HIGH-TECHNIC SERIES-1」が出た。
マルチアンプのまる一冊特集した本である。
この本におさめられている瀬川先生の文章のある一節を読んで、なくなった。
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EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
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グラシェラ・スサーナという固有名詞が出ているのも嬉しかったのだが、
それ以上に、日本語の歌で調整しても、それが「人の心を打つような音楽」として鳴ってくれるのならば、
最新のクラシックの録音も美しいバランスで鳴る、瀬川先生が聴き惚れるほどの音で響いてくれる──、
グラシェラ・スサーナの歌を、私にとっての最初の手がかりとしても、なんら問題がないどころか、
結局、ジャンルに関係なく、素晴らしい音楽がその素晴らしさに見合った音で鳴らなければ、
他のジャンルの音楽を鳴らしたとしても、聴き惚れるような音は出ない。
もちろん瀬川先生の知人の、パラゴンを鳴らされている方ように、
オーディオに関心をもち始めて1年ちょっとの私が同じ聴き方ができるわけがない。
けれど、ひとつだけできることがあった。
「いかに情感をこめて唱うか」──、
このことに関しては間違えようがない。
だから、グラシェラ・スサーナの歌がいかに情感がこめられて鳴ってくれるか、が、
私にとって、最初の重要な判断基準となっていた。