冒瀆か(その3)
冒瀆ということでいえば、
私がメリディアンの218に手を加えてくることも「冒瀆だ」といいたい人はきっといよう。
以前も書いていることのくり返しになるが、
そういう人が、まったく手を加えていないのかというと、決してそうでないことが多い。
電源コード一本交換しても、それは手を加えていることである。
でも、それを認めない人が、私がやっていることを「冒瀆だ」というのだから、
あれこれいっても無駄だ、という気もしてくる。
これもくり返しになるが、218に関して、ハンダゴテは一度も使っていない。
元の状態に戻すことは十分程度でできる。
元に戻してしまえば、メリディアンの人が中を見ても、手を加えた痕跡は見つけられないはず。
だからといって、私がやっていることは、全く冒瀆にはならない、とまでは考えていない。
218の開発者が「冒瀆だ」といえば、それはすんなり受け入れよう。
けれど受け入れながらも、
手を加えた218とノーマルの218とを比較試聴してほしい、という。
音を聴いたうえで、冒瀆かどうかを判断してほしいからだ。
そのうえで、やはり「冒瀆だ」といわれれば、冒瀆である。
それを認めたうえで、では218をどうするか、といえば、元に戻して使うわけではない。
手を加えた218で、これから先も聴いていく。
私のなかには、手を加えた218を聴いた後で、
ノーマルの218のままで音楽を聴いていくことこそが、
音楽に対する冒瀆のような感じるところがあるからだ。