楷書か草書か(その6)
書における手本は、オーディオの世界ではないのか。
誰かの音は、それが優れている音であれば手本にはなる。
けれど臨書での手本とは少し違う。
臨書を手本となる書を見て書く。
けれどオーディオでは、それは無理である。
たとえばまったく同じ造りで同じ音響特性の部屋が二つある。
そしてどちらにも同じシステムが用意されている。
一つの部屋のシステムは、きちんと調整されていて見事な音が出ている。
その音を聴きながら、隣の同一の部屋、同一のシステムを、
一からセッティングしてチューニングして同じ音にもっていく。
オーディオに臨書があるとすれば、こういうことになるだろう。
けれどこんなことほぼ実現できない。
実現できたとしても、それはほんの一握りの人のものになってしまうだろう。
それでは、と、誰かに自分のシステムを一からセッティング、チューニングしてもらう。
その人の力量がほんものならば、同じシステムか、と思うほどの音が鳴ってくる。
その音をじっくりと聴く。
そしてシステムをバラす。
各オーディオ機器の接続を外し、
システム全体をいったん部屋から出す。
そして、文字通り一からセッティングすることから始める。
そこで、どこまでさっきまで鳴っていた音を再現できるか。
これが現実的な、オーディオの臨書的なことだろう。
簡単なことのように思われるかもしれないが、
調整してくれた人との力量に差があればあるほど、
同じにセッティングしたつもりでも、同じではなくて、
音も同じようには鳴ってくれない。
そこでもう一度、手本の音を、と思っても、
もうそれはなくなってしまっている。