楷書か草書か(その7)
音である以上、手本となる音は消えてしまう。
見たい(聴きたい)ときに、すぐそこにあるわけではない。
オーディオの臨書は、そこが決定的に難しい。
それでも、なんとか臨書的なことはできないものか。
システム全体となると、
もう一度、その音を聴くには、同じ人にセッティングしてもらうか、
その人のレベルに肩を並べるくらいまで腕をあげるか、である。
けれど、もう少し範囲を狭くしたらどうだろうか。
たとえばグラフィックイコライザーである。
同じモデルを二台用意する。
一台を、きちんとした実力のある人に調整してもらう。
どの帯域をどれだけ動かしたのかは、
フロントパネルをブラインドフォールドしてしまう。
そのうえで、もう一台のグラフィックイコライザーを自分でいじって、
同じ音になるように調整していく。
これだともう一度、手本となる音を聴きたければ、
ブラインドフォールドしたグラフィックイコライザーを接続すれば、すぐに聴ける。
その音を確認したら、また自分での調整に戻る。
これを何度もくり返していけば、そうとうに実力、
つまり聴く力は身につくはずだ。
それでも、グラフィックイコライザーをきちんと調整できる人は、
ほんとうに少ない。
腕が自信がある──、
そんなことを豪語している人であっても、
ただ自分の好きな音に、音のバランスを無視して仕上げていたりする。
そういう調整がされたグラフィックイコライザーは、臨書における手本にはならない。