Date: 10月 10th, 2018
Cate: 楷書/草書
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楷書か草書か(その7)

音である以上、手本となる音は消えてしまう。
見たい(聴きたい)ときに、すぐそこにあるわけではない。

オーディオの臨書は、そこが決定的に難しい。
それでも、なんとか臨書的なことはできないものか。

システム全体となると、
もう一度、その音を聴くには、同じ人にセッティングしてもらうか、
その人のレベルに肩を並べるくらいまで腕をあげるか、である。

けれど、もう少し範囲を狭くしたらどうだろうか。
たとえばグラフィックイコライザーである。
同じモデルを二台用意する。

一台を、きちんとした実力のある人に調整してもらう。
どの帯域をどれだけ動かしたのかは、
フロントパネルをブラインドフォールドしてしまう。

そのうえで、もう一台のグラフィックイコライザーを自分でいじって、
同じ音になるように調整していく。

これだともう一度、手本となる音を聴きたければ、
ブラインドフォールドしたグラフィックイコライザーを接続すれば、すぐに聴ける。

その音を確認したら、また自分での調整に戻る。
これを何度もくり返していけば、そうとうに実力、
つまり聴く力は身につくはずだ。

それでも、グラフィックイコライザーをきちんと調整できる人は、
ほんとうに少ない。

腕が自信がある──、
そんなことを豪語している人であっても、
ただ自分の好きな音に、音のバランスを無視して仕上げていたりする。

そういう調整がされたグラフィックイコライザーは、臨書における手本にはならない。

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