Date: 10月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック
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Cinema Songs(その1)

ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、こう書かれている。
     *
 薬師丸ひろ子の「花図鑑」というコンパクトディスクを買ってきた(イースト・ワールド CA32・1260)。やはり、堂々と買う,というわけにはいかず、なんとなくモジモジしながら買った。なぜモジモジしたのか、自分でよくわからない。自分が、レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層から完璧にはずれたところにいることを意識しての、買うときのモジモジであったかしれなかった。
 いずれにしろ、たとえモジモジしながらでも、どうしてもこのコンパクトディスクが、ぼくはききたかった。ひとつは、なにを隠そう、ぼくは薬師丸ひろ子のファンだからである。特に彼女の、どことなく危なっかしい、それでいて若い女の人ならではの輝きの感じられる声が、ぼくは大好きである。それに、もうひとつ、この「花図鑑」をどうしてもきいてみたい理由があった。中田喜直と井上陽水が、ここで作品を提供しているのをしったからである。あの中田喜直とあの井上陽水が、薬師丸ひろ子のために、どんな曲を書いたのか、それをきいてみたかった。
 よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
 音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
 薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
 決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
 しかし、それは、どうでもいい。中田喜直と井上陽水が薬師丸ひろ子のために書いた歌は、それぞれの作曲者の音楽的特徴をあきらかにしながら、しかも薬師丸ひろ子の持味もいかしていて、素晴らしかった。モジモジしながらでも、このコンパクトディスクを買ってよかった、と思った。
     *
黒田先生は1938年生れだから、私より25上である。
黒田先生は「花図鑑」を《なんとなくモジモジしながら》買われた。

80号は1986年に出ている。
黒田先生は48歳、私は23。

薬師丸ひろ子は1964年生れ。
私は《レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層》に含まれていた、だろう。
それでも黒田先生の《なんとなくモジモジしながら》という気持は、わかる。

いまはamazonを筆頭に、インターネットで簡単に注文でき自宅に届く。
《なんとなくモジモジしながら》ということを味わうことは、もうない時代でもある。

いわば、こっそり買える時代だ。
でも、薬師丸ひろ子のCinema Songsは、それでは買わなかった。
レコード店で買った。

《なんとなくモジモジしながら》ということはなかったけれど、
それでも堂々と買う、ともいいきれなかった。

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