Date: 5月 9th, 2021
Cate: 中点
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中点(消失点・その3)

われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。

アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。

さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。

こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。

何かを探るためにやっているのではないだろうか。

昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。

置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。

つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。

その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。

結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。

そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。

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