中点(消失点・その3)
われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。
アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。
さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。
こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。
何かを探るためにやっているのではないだろうか。
昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。
置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。
つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。
その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。
結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。
そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。