音を表現するということ(間違っている音・その1)
間違っている音は、ある。
悪い音でもない、おかしな音でもない、嫌いな音でもない、間違っている音がある。
ヴァイオリンの独奏、ベースの独奏をおさめたCDを鳴らしているのに、楽器の数が一提ではない。
ヴァイオリンなりベースが二提、三提、ときには四提、
スピーカーのあいだにあらわれ弾いているように聴かせる音がある。
音像が音量を上げるにつれて肥大するのとはまったく異り、
楽器の数がほんらいのありかたとまったく違っている。
これも、もう間違っている。
好みの問題で片付けられるようなことではない。
現在市販されている、名の通ったスピーカーシステムで聴くかぎり、
よほど特殊な使い方でもしないことには、こういう現象はまず起きない。
起す方が、ある意味スゴイといえる。
たいていはユニットを組み合わせただけで、
基本を無視した自作のスピーカーか(自作スピーカーを非難しているのではない)、
もしくは既製のスピーカーシステムを内蔵ネットワークを介さずにすべてマルチアンプドライブし、
それだけでなくなんらかの電気的な処理でも施さないかぎり、こういう間違ったことにはならない。
なにも客観性のある音で鳴らせ、と、ひとに強要はしない。
けれどオーディオには録音と再生のあいだには、約束事がある。
この約束事だけは守ったうえで、自分の音というものがある、ともいえる。
その約束事を完全に無視して、心に染み入る音だから、などと力説されても、
そこに説得力はこれっぽっちも存在しない。間違っている音なのだから。
はやく気づいてほしい、と想うばかりだ。