音を表現するということ(間違っている音・その5)
バーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に鳴らしてしまう間違っている音。
これは音量に関係してくることであり、
facebookにも音量に関係するコメントがあった。
そのことについて触れておきたい。
たとえばハープシコードを,いわゆる爆音と表現されるほどの大音量で鳴らしたとする。
これは間違っている音といえるのだろうか。
そうだと答える人もいるし、違うと答える人もいる。
ハープシコードを爆音で鳴らす行為を、日本では下品なこと、とか、教養のないこと、
そんなふうに受け取られる傾向にある。
ハープシコードを爆音で鳴らすのが間違っている音とするならば、
オーケストラを小音量で鳴らすのも間違っている音になるのが、理屈である。
なぜか日本ではひっそりとした小音量で鳴らすのは、教養ある行為として認められる。
おかしなことではないか。
オーディオには、聴き手が音量を自由に設定できる(近所迷惑にならない範囲で)。
小音量でのオーケストラは、ガリバーが小人のオーケストラを聴く印象につながっていくのであれば、
大音量でのハープシコードは、巨人の国に迷い込んで彼らを演奏を聴くともいえる。
片方の世界へは想像力が働くのに、もう片方の世界には働かないのだろうか。
菅野先生が以前から指摘されていることなのだが、
映像の世界では、映画館の大きなスクリーンいっぱいに人の顔が映し出される。
けれどそれを実際の人の顔よりも何倍も大きいから不自然であるとか、
表現として間違っているとは思わないのに、これが音の世界になると、人の許容範囲は狭まる。
それが視覚と聴覚の違いだ、といってしまえばそれまでだが、
間違っている音と音量の関係についてはそれぞれが自分がなぜなのか、と考えほしい、と思う。
意外にも受け容れられる音量の範囲が、人それぞれに決っている、
もしくは無意識のうちに決めてしまっているのかもしれない。
音量と再生音について書いていくと、この項が先に進めなくなるのでこのあたりにしておくが、
いずれ項を改めてきちんと書いていくつもりだ(かなり先になりそうだが)。