〝言葉〟としてのオーディオ(その4)
ともかく五味先生はオーディオ評論家ではない。
私は一度たりとも、これまで五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。
オーディオ評論をやる作家だとも思ったことはない。
こんな当り前過ぎることを、こうやって書かなければならないことに、
なんとも表現しようのない気持になってしまう。
安岡章太郎氏は書かれている。
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本当のところ五味は、オーディオについての製品テストや消費者リポートの如きものをやっているわけではない。何々印のスピーカー、何々社製のアンプというのは、じつはキカイのことではなくて、音楽を語る言葉の代用としてつかっているにすぎない。五味には、それ以外に音楽を語る言葉がなかったのだ。いや、五味でなくとも、音楽そのものを直接語る言葉などというものがあるだろうか。──言葉が語ることができるのは、せいぜい演奏家の技術や、作曲家のプロフィールといったことぐらいではないか──。繰り返していえば、五味にとって音楽は宗教であり、〝音楽〟を信仰することで自分がよみがえったと信じているのである。音楽を語る言葉がありさえすれば、キカイをうんぬんしたりする必要もヒマもまったくなかったはずである。
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いうまでもなく、「〝言葉〟としてのオーディオ」とは、このことである。
誰も「音楽そのものを直接語る言葉」はもっていない。
岩崎先生も瀬川先生ももっていない。
もっていないこと、もつことができないこと、
それを生み出すこともできないのであれば、「〝言葉〟としてのオーディオ」を意識せざるを得ない。
だが、どれだけの人が、そのことを意識しているといえるだろうか。
五味先生の他に、誰がいたのか。
瀬川先生、岩崎先生はそうだったと、私は思っている。