〝言葉〟としてのオーディオ(その3)
インターネットが普及し、匿名での発言が簡単に行えるようになったことも関係している、とは思っているが、
とにかく、驚いたことは、五味先生のことをオーディオ評論家、もしくはオーディオ評論もする作家、
そんなふうにとらえている人がいた、ということである。
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に、連載をもっていたからオーディオ評論家なのか。
その短絡的思考には驚くしかないのだが、
もっと驚くのは、五味先生をそう捉えている人がどうも少なくないことである。
五味先生とは直接関係のないことなのだが、
これに関連することで私が最近驚いたのは、ステレオサウンド 186号の特集だった。
タイトルは「ほしくなる理由、使いたくなる理由」であり、
サブタイトルとして「評論家11人のオーディオコンポーネント選択術」とついている。
11人が登場している。
だが、この11人すべてをステレオサウンドはオーディオ評論家としているのか。
そのことに意外な感を受けた次第だ。
確かに11人のうちの多くは、ステレオサウンドでオーディオ評論家として執筆されている。
彼らが、本当の意味でオーディオ評論家なのかどうかを、ここで問いたいわけでなく、
その人たちのことをステレオサウンドがオーディオ評論家とすることには、特に異論はない。
けれど数人の方たちは、ステレオサウンドにときどき執筆されているけれど、
私の認識ではオーディオ評論家ではない、音楽評論家であったり、オーディオ愛好家であったりする。
ステレオサウンド 186号の特集に、
オーディオ評論家ばかりでなく、音楽評論家、オーディオ愛好家が登場するのはいい、と思う。
けれど、オーディオ評論家とそうでない人たちの境界を曖昧にしてしまっている。
なぜ、こんなことを編集部はしてしまったのだろうか。
ここにも、編集部の「言葉」に対する感覚が滲み出ている。