マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その3)
いろいろな人で、ある歌を聴く。
そのあとで、マリア・カラスで同じ歌を聴く。
マリア・カラスだけを聴いていれば……、という考えはしたくない。
それでも、誰かの歌のあとでマリア・カラスによる歌を聴くと、
ついそんなことを口走ってしまいたくなる。
先日もそうだった。
カラヤンによる「カルメン」を聴いていた。
アグネス・バルツァがカルメンを歌っている。
これだけを聴いていれば、バルツァのカルメンは素晴らしい、と心底思う。
なのに、カラスでも聴いてみよう、と思ってしまうと、もうだめだ。
なぜ、こんなにも存在感が違うのだろうか。
歌のテクニックということでは、いまではマリア・カラスよりも達者な歌手は少なくない。
カラスの歌は、生身の女性が歌っているという感じが、とにかく強い。
《お人形さんの可憐さにとどまった》歌では、決してない。
録音はカラスの方が古い。
なのに、カラスによってうたわれる歌は、色鮮やかだ。
むしろ新しい録音の、新しい歌手による歌のほうが、色褪て聴こえたりもする。