Date: 2月 19th, 2022
Cate: Maria Callas
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マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その3)

いろいろな人で、ある歌を聴く。
そのあとで、マリア・カラスで同じ歌を聴く。

マリア・カラスだけを聴いていれば……、という考えはしたくない。
それでも、誰かの歌のあとでマリア・カラスによる歌を聴くと、
ついそんなことを口走ってしまいたくなる。

先日もそうだった。
カラヤンによる「カルメン」を聴いていた。
アグネス・バルツァがカルメンを歌っている。

これだけを聴いていれば、バルツァのカルメンは素晴らしい、と心底思う。
なのに、カラスでも聴いてみよう、と思ってしまうと、もうだめだ。

なぜ、こんなにも存在感が違うのだろうか。
歌のテクニックということでは、いまではマリア・カラスよりも達者な歌手は少なくない。

カラスの歌は、生身の女性が歌っているという感じが、とにかく強い。
《お人形さんの可憐さにとどまった》歌では、決してない。

録音はカラスの方が古い。
なのに、カラスによってうたわれる歌は、色鮮やかだ。

むしろ新しい録音の、新しい歌手による歌のほうが、色褪て聴こえたりもする。

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