Date: 2月 20th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その18)

その17)を書いていて、思い出す。
五味先生の文章を思い出す。
     *
 とはいえ、これは事実なので、コンクリート・ホーンから響いてくるオルガンのたっぷりした、風の吹きぬけるような抵抗感や共振のまったくない、澄みとおった音色は、こたえられんものである。私の聴いていたのは無論モノーラル時代だが、ヘンデルのオルガン協奏曲全集をくり返し聴き、伸びやかなその低音にうっとりする快感は格別なものだった。だが、ぼくらの聴くレコードはオルガン曲ばかりではないんである。ひとたび弦楽四重奏曲を掛けると、ヴァイオリン独奏曲を鳴らすと、音そのものはいいにせよ、まるで音像に定位のない、どうかするとヴィオラがセロにきこえるような独活の大木的鳴り方は我慢ならなかった。ついに腹が立ってハンマーで我が家のコンクリート・ホーンを敲き毀した。
 以来、どうにもオルガン曲は聴く気になれない。以前にも言ったことだが、ぼくらは、自家の再生装置でうまく鳴るレコードを好んで聴くようになるものである。聴きたい楽器の音をうまく響かせてくれるオーディオをはじめは望み、そのような意図でアンプやスピーカー・エンクロージァを吟味して再生装置を購入しているはずなのだが、そのうち、いちばんうまく鳴る種類のレコードをつとめて買い揃え聴くようになってゆくものだ。コレクションのイニシァティヴは当然、聴く本人の趣味性にあるべきはずが、いつの間にやら機械にふり回されている。再生装置がイニシァティヴを取ってしまう。ここらがオーディオ愛好家の泣き所だろうか。
 そんな傾向に我ながら腹を立ててハンマーを揮ったのだが、痛かった。手のしびれる痛さのほかに心に痛みがはしったものだ。
(フランク《オルガン六曲集》より)
     *
《再生装置がイニシァティヴを取ってしまう》、
コレクションのイニシアティヴは、聴く本人の趣味性にあるべきはずなのに、
いつの間にやらそうでなくなっていく。

五味先生だけがいわれていることではない。
私がオーディオに興味をもつ以前からいわれていることである。

心に近い音で鳴る再生装置であれば、
その再生装置がコレクションのイニシアティヴをとっても、
それは聴く本人の趣味性から離れることはないであろう。

耳に近い音だけの再生装置によるコレクションのイニシアティヴとは、
当然違ってくる。

五味先生は、コンクリートホーンをハンマーで敲き毀された。
徹底的に破棄する──、この行為こそが示す道がある。

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