戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その17)
一年ほど前の(その16)で、この項は終りのつもりでいた。
けれど、いまこうやって、また書いているのは蛇足かもしれないと思いつつも、
やっぱり書いておこう、という気持のほうが強い。
(その1)は七年ほど前。
だから、少しくり返しになるが、黒田先生の「風見鶏の示す道を」のことを書いておく。
《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》
ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
*
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
*
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。
13歳のときに、「風見鶏の示す道を」を読んでいる。
それだけに記憶に強く残っている。
どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。
このレコード(録音物)だけが、行き先を告げてくれる。
けれど、その携えているレコードを、乗客(聴き手)は、どうやって選んだのだろうか。
嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードが示すのは、
どこまでいっても、耳に近い音なのではないだろうか。
心に近い音を示してくれることはないはずだ。