戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その16)
(その1)から六年。
書きたかった結論は、冒険と逃避は違う、ということだけだ。
黒田先生の「風見鶏の示す道を」には、
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
駅員と乗客は、こんな会話をしている。
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。
そのレコードは、いうまでもなく旅人が、聴きたい音楽であるわけだが、
この項で書いてきたのは、その「聴きたい音楽」をつくってきたのは、
なんだったのか、であり、
聴きたい、と思っている(思い込んでいる)だけの音楽なのかもしれない。
嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードと、
「風見鶏の示す道を」の旅人が携えるレコードを、同じには捉えられない。
前者は逃避でしかない。
本人は、冒険だ、と思っていたとしてもだ。