戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その1)
私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。
《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》
ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
*
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
*
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。
38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。
13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。