マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その2)
続きを書く予定は最初はなかったけれど、
そういえば「レコード・トライアングル」にカラスの章があったことを思い出した。
黒田先生は、マリア・カラスの章に「声だけで女をみせる:マリア・カラス」とつけられている。
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いまふりかえってみて気がつくのはカラスのレコードを全曲盤にしろ、アリア集のレコードにしろ、たのしみのためだけにきいたとはいえないということである。そのときはなるほどたのしみのためにきいたのかもしれなかったが、結果としてさまざまなことを勉強したにちがいなかった。なにを勉強したのかといえば、オペラとはなにか?──ということであった。オペラとは音楽であり同時にドラマでもあるとういことを、カラスのうたうノルマやルチアの〈トロヴァトーレ〉のレオノーラをきいてわかった。
そのことを別の面から教えてくれたのがトスカニーニであった。なるほどオペラとはこういうものであったのか──といった感じで、トスカニーニによってオペラに対しての目をひらかれた。はじめてカラスの〈ノルマ〉をきいた当時のぼくはききてとして、完全にトスカニーニの影響下にあった。
そういうかたよったきき方をあらためるのに、カラスのレコードはまことに有効であった。
あれこれさまざまなカラスのレコードをきいているうちに見えてくるものがあった。レコードが与えてくれるのはたしかに聴覚的なよろこびだけである。いかに目を凝らしてもなにも見えない。レコードでできるのはきくことだけのはずである。ところがカラスのレコードをきいていたら、悲しむノルマの表情が、怒るノルマの頬のひきつりが、見えてきた。それをも演技というべきかどうか。カラスによってうたわれた場合には、ノルマなり、ルチアなり、レオノーラなり、つまりひとりの女を、音だけで実感することができた。
それはむろん信じがたいことであった。しかしそれは信じざるをえない事実でもあった。
カラスのレコードをきくということは、そこでカラスが受けもっている役柄を、ひとりの生きた人間として実感することであった。オペラのヒロインには、中期のヴェルディ以後の作品でのものならともかく、その描き方に少なからずステロ・タイプなところがある。そういう役柄は、うたわれ方によってはお人形さんの域を出ない。しかしそのことをもともと知っていたわけではなかった。
ルチアにしろ、〈夢遊病の女〉のアミーナにしろ、〈清教徒〉のエルヴィーラにしろ、幸か不幸かまずカラスのうたったレコードできいた。そういう役柄がひとつ間違うとお人形さんになってしまうということを、後で別のソプラノがうたったものをきいて知った。たとえば、カラスのうたったアミーナとタリアヴィーニがエルヴィーノをうたったチェトラの全曲盤でのリナ・パリウギのアミーナとでは、なんと違っていたことか。カラスのアミーナには人間の体温が感じられたが、パリウギのアミーナは美しくはあったがお人形さんの可憐さにとどまった。
さまざまなレコードをきいたり、実際に舞台で上演されたものに接したりしているうちに、やはり人並みにオペラのたのしみ方のこつをおぼえてきた。その結果、ますますカラスのオペラ歌手としての尋常でなさがわかってきた。
(中略)
オペラを好きになりはじめた頃からずっと、マリア・カラスはもっとも気になるオペラ歌手であった。はじめはなんと変わった声であろうと思い、この人がうたうとなんでこんなに生々しいのであろうと考え、つまりカラスは大きな疑問符であった。その大きな疑問符にいざなわれて、オペラの森に分け入ったのかもしれなかった。
ぼくはカラスの熱烈なファンであったろうか?──と自問してみて、気づくことがある。かならずしも熱烈なファンではなかったかもしれない。しかしカラスによって、より一層オペラをたのしめるようになったということはいえそうである。マリア・カラスは、ぼくにとって、オペラの先生であった。カラスによっていかに多くのことを教えられたか数えあげることさえできない。
しかしカラスの他界によってカラス学級が閉鎖したわけではない。決して充分とはいえないが、それでもかなりの数のレコードが残っている。これからもオペラとはなんであろう? という、相変わらず解けない疑問をかかえて、カラスのレコードをききつづけていくにちがいない。
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黒田先生の文章を読んで、
マリア・カラスは、また違う意味での「古典」でもある、と思っているところだ。