時代の軽量化(その10)
(その9)で《鍛えられずに》と書いた。
(その9)でいいたかったことは、この一言につきる。
鍛えられる──、
こんなことを、オーディオという趣味の分野で使うことに抵抗を感じる人はいよう。
趣味なのだから、本人が楽しめればいいじゃないか、
そこに苦しいおもいをする必要はないはず──、と。
鍛える、ということに少しは賛同してくれる人がいたとしても、
彼らは、では、どうやって鍛えるのか、ときいてくるかもしれない。
アンプでもケーブルでもいい。
システムのどこ一箇所を変更する。
変更前と変更後の音を、オーディオマニアならば納得するまで比較試聴するはず。
わかりやすい違いもあれば、微妙な違いのときもある。
微妙な違いの場合、どちらがいい音(望む音)なのか、判断に迷うこともある。
そこで時間をかけて、しつこく試聴を重ねる。
これも鍛えることではある。
それでも、私がいいたい「鍛える」「鍛えられる」は、
その域に留まっていることではない。
オーディオは一人でできる趣味である。
それでも師と呼べる人をもつべきだ、と、
私は自分の幸運をふりかえって、そういおう。
スポーツでも、楽器の演奏でも、コーチ、師といった存在がいる。
優れたコーチに出逢えた選手と出逢えなかった選手とでは、
当然のことながら違ってくる。
正しく鍛えられた選手とそうでない選手の違いがある。