Date: 6月 4th, 2021
Cate: 純度
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オーディオマニアとしての「純度」(その18)

アンプの純度といえば、それは音の透明感ということになるだろう。
純度の高い音のアンプ、
そんな表現を見て、ほとんどの人が、透明度の高い音をおもい浮べるはず。

オーディオマニアとしての純度は、
そういう透明度ではない、と私は思いつつ、この項を書いている。

別項で書いている透明と澄明の違いにも似ている。
アンプの音の透明度は、まさしく透明であり、
オーディオマニアとしての純度とは、透明ではなく澄明である。

透明度の高さとは、そこから夾雑物、不純物を徹底して取り除いた結果としての透明度である。
澄明は、そういうことではない。

《フルトヴェングラーは矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった。音楽においてのみ、彼は首尾一貫し、円満で調和がとれ、非凡であった》と冷徹な観察をしているのは、フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのあるグレゴール・ピアティゴルスキーである(『チェロとわたし』白水社刊より)。

澄明とは、ピアティゴルスキーが語っていることである。
相反するもの、矛盾するもの、清も濁も、
そういったものが円満で調和がとれてこその澄明である。

音楽の聴き方は人それぞれだから、そんなことはない、という人もいるだろうが、
透明な音ではマーラーの音楽は、鳴ってこない。

マーラーに限らない、ベートーヴェンの音楽もワーグナーの音楽も、
そしてモーツァルトの音楽も、澄明な音だからこそ鳴ってくる。

オーディオマニアとしての純度とは、そういうもののはずだ。

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