Date: 5月 31st, 2019
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MQAのこと、MQA-CDのこと(その3)

中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてある。
     *
 つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
 レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
     *
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏を聴くにあたって、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことは無関係で聴くのが、
音楽の聴き方として、正しいのかもしれない。

けれど、私がジャクリーヌ・デュ=プレを知ったときすでに、
ジャクリーヌ・デュ=プレは多発性硬化症に冒されて引退していた。

だからといって、
初めてジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を聴いたとき、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことなど頭にはまったくなかった。

聴き終ってからである。
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のこと、ジャクリーヌ・デュ=プレがどういう状況なのか、
そんなことをおもったのは。

中野英男氏が、ジャクリーヌ・デュ=プレの日本盤(LP)を、
二階の窓から庭に投げ捨てられた、その気持はわかる。

ジャクリーヌ・デュ=プレのチェロの音が、《荒寥たる乾き切った音》になってしまっては、
絶対に許せない。

中野英男氏が聴かれた《荒寥たる乾き切った音》とは、
また違う《荒寥たる乾き切った音》を聴いたことがある。

それでも、その音を鳴らしていた人は、
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏は素晴らしい、胸を打つ、という。

感動しているわけだ。
《荒寥たる乾き切った音》でも、その人は感動していた。
その人もオーディオマニアである。

私が求めているジャクリーヌ・デュ=プレと、
その人が出している(鳴らしている)ジャクリーヌ・デュ=プレは、
どちらもジャクリーヌ・デュ=プレなのか……。

それがオーディオだ、というしかないのだろう。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を、
MQA-CDをメリディアンのULTRA DACで鳴らしたとしよう。

その人は、その音を聴いてなにをおもうのか。

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