録音評(その1)
「北」という漢字は、右と左の、ふたりの人が背けた状態の、
人をあらわす字が線対称に描かれている──、
ということは川崎先生の講演をきいたことのある方ならば耳にされているはず。
「北」がそうであるように、「化」も人をあらわす字が線対称的に描かれた文字である。
左の「亻」も右の「匕」も、そうである。
「花」という漢字は、艹(くさかんむり)に化ける、と書く。
ならば、「音」に化ける、と書く漢字もあっていいのではないか、と思う。
花が咲く、茎や枝の色とくらべると、花の色は鮮かな色彩をもつ。
音楽も、豊富な色彩をもつ、音が化けることによって。
花と、茎や枝の色は違う。
けれどあくまで花は、枝や茎の延長に咲いている。
ここからここまでが茎(枝)で、ここから先が花、という境界線は、
実はあるようにみえて、はっきりとその境界線を確かめようと目を近づけるほどに、
境界線は曖昧になってくる。
音と音楽の境界線も、あるようでいてはっきりとはしていない。
よくこんなことが、昔からいわれているし、いまもいわれている。
「このディスクは録音はいいけれど演奏がねぇ……」
「このディスクは演奏はいいけれど録音がもうひとつだねぇ……」
そんなことを口にする。
私だって、時にはそんなことをいう。
昔からレコード評には、演奏評と録音評がある。
オーディオ雑誌、レコード雑誌に載る演奏評、録音評は、たいてい別のひとが担当している。
演奏評は音楽評論家、録音評はオーディオ評論家というぐあいにだ。
ただ、これもおかしなはなしであって、
菅野先生はかなり以前から、そのことを指摘されていた。