感動における境界線(その3)
ずっと以前は、クラシックのコンサートとロック・ポップスのコンサートの違いは、
PAを使うのか使わないのか,ぐらいだったのではないだろうか。
それがいつのころからか、
ロック・ポップスの、非常に人気のある人、グループのコンサートは、
エンターテイメントの追求からなのか、
大型のテーマパークのような印象を受ける。
そういう人たちのライヴをおさめたものが、Netflixで公開されているのをみていると、
私がずっと以前に数回程度行ったことのあるロック・ポップスのコンサートとは、
もうべつもののようである。
こういう、ハリウッドの超大作的規模のコンサートは、
当然数万人という観客を集めなけれはならないだろうし、
コロナ禍以降、どう変化していくのかなんともいえないが、
こういうテーマパーク的、ハリウッドの超大作的コンサートを画面越しに眺めていると、
すごいな、と思う一方で、最後までみるのがしんどく感じることもあったりする。
コンサート会場にいれば、また感じ方は違ってくるのか。
同じ画面越しであっても、本格的なホームシアターでみるのであれば、
最後まですんなりみて楽しめるのか。
そんなことを考えるよりも、そこで感動を受けた、という人はいるはずであって、
でも、そこでの感動は、もしかすると装飾された感動ではないのか、と思ってしまう。