Date: 8月 15th, 2021
Cate: 境界線
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感動における境界線(その4)

(その1)と(その2)で、
フルトヴェングラーのことば、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を引用した。

五味先生が「ビデオ・テープの《カルメン》」が書かれていることが、
このフルトヴェングラーが語っていることと結びつく。
     *
そもそもレコードで音楽を聴くというのは——少なくともクラシックのそれは——単に精神の慰藉であるよりも、精神そのものの集中と凝視によって、美を、忍耐づよく、純粋に感受せんための一種の訓練行為であり、そういう凝視と集中の訓練のうちにおのずと、深い喜びが湧き、美を味わえる、そういう行為だと私は思っている。旋律はスピーカーから鳴っているが、その旋律に美と音楽を付与するのは、あくまで聴く側の創造によることである。極言すれば、作曲はスピーカーがしているがそれを真の音楽とするかどうかは、あくまで聴く者の感受性に関わっている。だからこそスピーカーから鳴ってくるバッハを、一人は難解と退屈に、一人は深い喜びで聴く。同一人の場合でも、十代で感動する曲が三十代ではもう退屈になっている。
     *
フルトヴェングラーがいうところの「人と人」とは、
コンサートホールにおける演奏家と聴き手を指しているはずだ。

われわれはオーディオというシステムを介して音楽を聴く。
その場合の「人と人」とは、五味先生が語られていることのはずだ。

感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。

フルトヴェングラーは「人と人の間にあるもの」という。
「間」は、この場合、あいだと読む。

けれど「間」は、あわいとも読む。

感動とは、あわいものなのだろう。

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