輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その8)
黒田先生の「ついにききつくせず」は、いま読み返してもらいたい、と思う。
読むたびに、そうおもう。
ききこむについて、こうも書かれている。
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しかし、ききこむという言葉が、もともとかなりの危険を含んでいるということは、やはりいっておかねばならない。つまりそれは、たかがつもりの言葉でしかないからだ。フルトヴェングラーのブルックナーをとことんききこんだけれどね——といっても、それはただ当人がそう思いこんでいるだけのことでしかない。にもかかわらず、ききこんだと言葉にしてしまった時、その音楽を充分にききつくしたと錯覚してしまいかねない。それが危険だ。さらにいえば、ききこむという言葉には、ききての、ききてとしての思いあがりが、感じとれる。どういう思いあがりかといえば、海の水を両手でくみあげきれるとたかをくくっている思いあがりだ。
いかにききてとしての自分ががんばったところで、結局はききつくせるものではないと思う、つまりあきらめではない、今きいている音楽に対しての深い尊敬の念がないかぎり、音楽とのかかわり方は、ひどく浅薄なものになりかねない。ききこむなどという言葉を安易につかう人の発言は、おしなべて、ひどく底の浅いものであることが多い。
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「ききこむ」にしても「誠意」にしても、たかが言葉じゃないか、と思う人もいよう。
でも「ききこむ」にしても「誠意」にしても、
言葉にしてしまった時、言葉にしてしまった当人を錯覚へ誘い込む。
ほんとうに危険である。
気をつけていないと、危険であることにすら気づかない。
こうやって毎日ブログを書いていて気をつけなければ、と思っているのは、そのことである。