輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その7)
誠意とは、自らいうことだろうか。
誠意をもって(あるオーディオ機器を)鳴らしました、
誠意をもって(あるオーディオ機器を)評価しました、
──そんなふうに自分でいってしまう人がいるのか。
少なくとも私が親しくしているオーディオ好きの友人には、そんな人はいない。
相手に誠意を要求してくる人はどうだろうか。
自社取り扱い製品を、誠意をもって聴いてほしい、
誠意をもって売ってほしい、
──そんなふうに相手に要求することなのだろうか。
誠意という言葉そのものが悪いわけではない。
だけど一度言葉として発してしまうと、薄っぺらな印象をまとってしまうように感じる。
そんなことを数日考えていて思い出したのは、
黒田先生が「ついにききつくせず」で書かれていた《ききこむ》についてである。
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最近、ききこむという言葉がつかわれることの多いのを、お気づきだろうか。きくといえばたりるところを、ききこむという人が、すくなくない。なんとなくわざとらしい言葉で、好きになれないから、自分では使わないが、あのレコードをかなりききこんだんだけれどね──といったように、使う。ききこまれるのは、主にレコードのようだ。あのコンサートをかなりききこんだんだけれどね──とは、あまりいわない。
ききこむとは、くりかえしきいて、さらに深くその音楽を理解しようとすることのようだ。そのこと自体、むろんわるいことではない。ただ、わざわざそういった大仰ないい方をしなくとも、それはこれまでに、誰もがしてきたことではないかという気持になる。それをことさらもっともらしく、敢えてききこむなどといわなければ納得できないところに、もしかするとそのききてのきき方の軽薄さがあるのではないかとかんぐってしまう。そういう、ききこむなどという言葉をつかう人は、普段はただ聞いているだけで、ろくに聴くことなどないのかもしれず、たまに聴いたりするもので、ことあらためてききこむなどといいたがるのではないか。
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《きくといえばたりるところを、ききこむという》、
ここでのわざとらしさと同じ感じを受けてしまうのが、
自分で「誠意をもって……」といってしまうことである。