Date: 2月 19th, 2023
Cate: 所有と存在
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所有と存在(とディスクラック・その2)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」に、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに書かれていることは、別項『「芋粥」再読』でも引用しているが、
ここでもくり返し引用しておきたいし、読み返してほしい。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
ビデオにしてもディスクにしても、
そこにおさめられている映画、音楽を観たい・聴きたいからこそ蒐集するはずなのに、
いざほとんどを蒐集してみるとこうなってしまうのは、なぜなのか。

《充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそう》からだけなのか。
《一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまう》ともある。

夢とは、映画を観ること、音楽を聴くことのはずなのに、
しかも、そのことは多くの人がわかっていることなのに、そうなってしまいがちだ。

安岡章太郎氏は《庶民の夢》とされている。
自身を含めての庶民ということである。

《庶民の夢は、つねに多分に物質的なものである》
このことをつい忘れがちになってしまうのではないだろうか。

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