あるスピーカーの述懐(その12)
スイングジャーナルの編集部に、1970年代後半にいた友人からきいた話がある。
ある人に、レコードの録音評を依頼した。
けれど、その人は丁寧にことわってきた。
レコードの録音評は、多くの場合、
その人自身のシステムで聴くことになる。
オーディオ機器の試聴であれば、
ステレオサウンドの場合、試聴室に来てもらっての試聴ということになる。
レコード(録音物)の場合は、スイングジャーナルも、おそらくレコード芸術も、
録音評をやる人のところにレコードを届けての試聴となる。
掲載される雑誌の試聴室で聴くのか、自身のシステムで聴くのか、
さほど違いはなかろう、と思う人は、聴くことの難しさと怖さを理解していない。
そのレコードの録音について語る、ということは、
自身のシステムから鳴ってきた音について語ることである。
そのレコードのここがよかった、というのはまだいい。
そのレコードのここがよくない、というのは、
ほんとうにその録音のまずさについて語っているのか、
それとも自身のシステムの不備を語っているのか、微妙なところである。
自身のシステムの不備とは、システムが力量に問題があるのか、
それとも聴き手(鳴らし手)の力量に問題があるのか、
そこもしっかりと判断しなければならない。
つまりセルフチェックをつねにくりかえしの試聴を行なわなければ、
いったい何を聴いているのかがわからなくなってくる。
そんなのわかりきったことだろう、
レコードの録音の良し悪しを聴いているんだ、と言い切れる人は、
しっぺがえしを喰らっていることにすら気づかずにいるだけだ。
レコードの録音評にしても、スピーカーの試聴記にしても、
己をさらけ出している、というより、
己をさらけ出すことだ、ということに気づかずにいれる人は、
聴くことの怖さを知らずにいる能天気な人、
オーディオ、音楽を嗜好品としてしか捉えていない人だろう。