Date: 3月 26th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ
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同軸型ユニットの選択(その27)

ステレオサウンド 50号のマイ・ハンディクラフト、
別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 4」、
同じく別冊「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」、
これらの記事を何度もくり返し読んできた私にとっては、
アルテックの604-8Gと平面バッフルとの組合せが鳴らす音と響きは、
私自身が心から求める世界とは違っていることはわかっていても、
思いっきり鳴らしてみたい世界でもある。

でるだけ大きな面積の平面バッフルこそが、
こういう音を求めるには最良の結果をもたらすことぐらいはわかっていも、
現実に5.5畳ほどのワンルームに、1.8m×0.9mの平面バッフルを無理矢理入れて、
シーメンスのコアキシャルを取り付けて聴いていた私は、
いかにも大きすぎることを感じていた。

私の感覚からすれば、自分の身長よりも高いスピーカーはあまり使いたくない。
それは広いリスニングルームがあったとしてもだ。

このへんのことは、人それぞれの感覚があってのことだから、
どんなに背の高いスピーカーであっても、音が良ければまったく気にならない、
そういう人もいれば、私のような人もいる。

さほど大きくない平面バッフルに604-8Gを取り付けて、
サブウーファーはエンクロージュアにおさめる。

こんな構想を考えながら思い出しているのは、
ダルクィストのスピーカーシステムDQ10のことだ。

いまではDQ10といっても、どんなスピーカー?
ダルクィスト? という人のほうが多数だろう。

あえてQUADのESLのアピアランスに似せたDQ10は、
私は聴く機会はなかったけれど、
ハイエンドスピーカーの流れに連なっていく音だったのではないだろうか。

DQ10はウーファーだけがエンクロージュアに収まっていた。
他のユニットは最小限のバッフルに取り付けられていた。

サランネットを外した姿、いわば裸のDQ10はバラックのようでもあった。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    3月 28th, 2022
    REPLY))

  2.  アルテックを使った、いわば西海岸のダルキストといえるようなスピーカーがあったら面白そうです。
     アルテックのユニットを使う上で、平面バッフルによる背圧からの開放は有意義だと思います。
     2011年にビーチ・ボーイズの「スマイル・セッションズ」が発売されたことは記憶に新しい出来事です。ほとんど完成していながらも頓挫したアルバム「スマイル」が、1967年に予定通り発売されていたら世の中はどうなっていたことでしょう。「サージェント・ペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」が「スマイルのまね」と酷評された可能性もあります。かつて評論家たちが「ペット・サウンズ」の評価を見誤ったように。その場合における、その後の音楽史を想像することは困難です。
     当時のビーチ・ボーイズはコントラバスを使うことで低音域にアタックを持たせていました。ビーチ・ボーイズは、低音域のアタックをキック・ドラムではなくベースによって作り出していました。1960年代当時、それは珍しいことではありませんでした。
     それは、彼らがアルテック・スピーカーのユーザーであり、アルテック・スピーカーがウッド・ベースの再生において非常に有利にはたらいていたためです。
     70年代以降、ウッド・ベースのリズム・セーブとしての地位は下降の一途をたどり、ジャズマンでさえもベースギターの奏法を真似るようになりました。ベースは低音域におけるリズム楽器としての地位を、キック・ドラムに明け渡しました。コントラバス用のピックアップは、寝そべった音質を追求するようになりました。ピチカートにメロディックさを出すためです。私は、ジャズ衰退の原因の一つをここに見ます。
     ホールの壁バッフルは、私にとって馴染み深いものです。バッフル効果は絶大ですが、バッフルの面積をどのように捉えるかは難しいところです。
     バックキャビティーを持たないユニットを埋め込む場合、壁バッフルは低域の拡張に有利に働きます。ところが、バッフル面積はサウンドの面において必ずしも有意義に働くとは限りません。419の壁への埋め込みを聞いたとき、私はいくらか落ち込みました。なにせバックキャビティーは30畳はくだらなかったのです。低域の音階に不備は無く、表現は自然でした。しかし、どこか腑抜けした印象を残しました。
     ボストン・アコースティックスのA400およびA200スピーカー・システムは、ダルキストと同様のバッフル概念を持っているように思います。A200は広いバッフルを持っていながらも、ウーハーとスコーカー間の距離をいっぱいにとっていました。私は長い間、そのユニット配置に対して釈然としないインプレッションを持っていました。
     今ならば、ある程度の推測を試みることができます。そこに、設計士による妙技があるのだろうと想像できるわけです。それはバッフル効果のみならず、たとえば、ウーハーによる他ユニットへの音質的干渉。それに対する配慮。あるいは、キャビネット前後に対して意図的に割合をもたせた音の分散―、などということが、ファクターとして考えられるのです。
     ダルキストは、各ユニットごとに最適なバッフル面積があると考えたのかもしれません。
     アルテックの小型化、一般化の妙技については、後のアルテックのPC用スピーカー群の中に見ることができます。それらは非常に小型でありながら、ウッドベースのアタックは驚くほど明瞭です。それは、ボーズやジム・ロジャースの小型スピーカーに見られる音とはまた別種の豊かさを低域に備えています。しかし、そのサウンドは、それが発売された当時でさえすでに時代の潮流と大きく乖離していました。
     先日、JBLの新たなスピーカー「パーティーBOX」のシリーズを一通り聞く機会がありました。それは東海岸の音を意識したサウンドだと感じました。私はすこし落胆しました。これは量ではなく質的な問題の話なのです。それは確かに、音質的にも視覚的にも、パーティーを盛り上げるための効果を持っていました。しかし、そこにカリフォルニアの青い風は吹きませんでした。
     しかしながら、今日の流行音楽の方向性から考えれば、彼らの音質的なアイデンティティーの喪失は当然のこととも言えるでしょう。好意的な解釈をするならば、JBLからのインターナショナルな歩み寄りと考えるべきです。弟の轍を踏まぬよう、自らの存続のために振舞ったことは評価すべきだと思うのです。そもそもJBLは常に時代性を考慮する意識を持ち合わせていましたから、これは今さら落胆すべき内容ではないかもしれません。
     クラスD変調のアンプはいつ発明されたものでしょうか。CDよりずっと古かったはずですが、「スマイル」の時代には間に合わなかったかもしれません。けれどもし、それが可能で一般化されていたとしたら、アルテック・ランシングはサブ・ウーハーを小型化できたかもしれません。
     Dクラス・アンプをサブ・ウーハーに使ったのであれば、そのアンプはかなりのワッテージが期待できたと思います。低音域をサブ・ウーハーに任せ、アルテックのユニットを平面バッフルに取り付ければ、システムはボクシーな付帯音からいくぶん開放されるのではないでしょうか。
     背圧からの解放という観点において、私の中にイメージできるスピーカー・システムの一つに、EVのインターフェイスDというスピーカーの存在があります。インター・フェイスDのミッドレンジ・スピーカー「VMR」には、背圧を逃がすための開口がありました。サンスイのスピーカーLM-033はツイーターの背圧を側面へ逃がしていました。どちらも素晴らしいユニットです。このような背圧の処理は一つの音の流派であり、古くはエア・デールやジョージアンにも見られた技術です。そのサウンドは、ARやKLHを代表とする東海岸の密閉型音響のものとは異なるものです。
     今日のロックファンはビーチ・ボーイズのアルバム「ペット・サウンズ」に理解を示すことができなくなってきているようです。おそらく、それはエレクトロニクスがこちら側に傾いたからであり、我々21世紀人類の固定概念が60年代の当時とはかけ離れたものになってしまったからでしょう。
     現代のロックファンは、冒頭曲「素敵じゃないか」の多幸感の中に潜む、ブライアンの悲痛な叫びを聞く力を持っていません。しかし、考えてみれば、これは仕方のないことです。このことはオーディオの変遷と深い関係があるのです。現代のロックファンにとって、キックのない音楽、つまり、ベースをビートの主軸とした音楽に触れるということは、我々が古文を読みこなすことと同じほどに困難を極めるものなのです。
     ここで、ペット・サウンズについて解説しておきます。
     ペット・サウンズはザ・ビーチ・ボーイズの強力なアルバムです。このアルバムには、それを聞いている時の景色のあらゆるものを美化し、感情の世界へ誘うという効果があります。その効果は圧倒的で、いかなる状況にも適応できるその情景描写の強さは、他に類例を見ません。
     実際にその効果は、様々な写真のスライドを見ながら聞くということで確認することができます。それはエキセントリックで前衛的な写真に対しても、あるいは何気ない日常を切り抜いた写真に対しても適応されます。「ペット・サウンズ」のその音が鳴った瞬間、いかなる場所も意味のある場所になります。すべての風景に光が当てられ、その裏側に見えない深遠の影が伸びるのです。このことは、この作品が非常に高い普遍的と抽象性とを持ち合わせていることを示しています。
     これが私なりの「ペット・サウンズ」の定義です。「スマイル」については、私はまだ明確な言葉を持ちません。
     では、ペット・サウンズを十全に再生できる装置とはどんなものがあるでしょう・・・。はい、このような問題には切りがありません。さまざまな音楽おいて、同じような問題が存在するのです。ベームやヨッフム、クナッパーブッシュをどのように再生するべきなのか。理想的なシティーポップの再生とは、どのような音質であらねばならぬのか。クラフトワークは・・・
     しかし、それらが十全な音質で再生されたとて、それは現代人にとって理解しえるものであるのか?という問いがまた生じるのです。
     この時、「音楽は言葉で表現することが不可能な現象であるのだからこその存在意義がある、したがって、無理に言葉にしてはならない」という論を俟たないような意見もあります。一見これは正当に見えますが、これについては反駁できます。
     空気の疎密波である音楽を、楽譜に置き換えたり、DTMのプログラムに置き換えなければ、ヒトは今日のような音楽を構築することができません。「音を楽しむのが音楽であるのだから難しい事は考えてはならない」という考えは、粗悪な消費者根性であって、音楽に対する自由な探求心を奪い、その発展を阻害する危険な考えです。そもそも音楽という言葉は中国語が由来であり、音楽は楽音と同義の意味を持ちます。中国語の「楽」に楽しいという意味合いは無く、後に日本人が音楽を楽しいと感じたために、楽器を意味する「楽」にたのしいという訓読みを後付けしたものにすぎません。さて、こんなことを言っているとだんだん意地が悪くなっていくので止めましょう(笑)。
     つまり、楽譜による可視化は許されて、言語化は許しえないという話は道理の立たない見解であり、論理性に乏しいうえ、他者の自由を阻害するということが言いたかったわけです。
     伝わらぬことや黄昏れゆくことを嘆くばかりでは能がありませんから、音楽大学の学者たちには、優秀なプレイヤーを量産することばかりではなく、優秀なリスナーを育てるための素地作りにも、より一層のご尽力を期待したい限りです。
     ブログ記事「老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その3)」の中で宮崎さんは「考えさせられる」という言葉をおつかいになられました。思えば、「考えさせられるなあ」と思わせるものが少なくなってきたように思います。「考えなくていいよ」というものが多くなってきたかどうかは分からないのですが、考え方が分からなくて悩んでいる人も多いように思います。
     audio identity (designing)は考えさせられるブログであり、一人でも多くの方に読んでいただきたいと願います。これからも楽しんで愛読させていただきます。

    1F

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