老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その4)
1976年、「五味オーディオ教室」と出逢った私は、
その一ヵ月後くらいにステレオサウンドを書店で見つけた。
41号と別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭は、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」である。
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ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。しかし、少し視点をかえていうと、彼は、きかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね——という。そういって、いっこうかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうべートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね——というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができない。
楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって、演奏家にきかされている——ということになる。
レコードでは、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとりの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
ここでひとこと、余計なことかとも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
なぜなら、きかされていることを意識した時にはじめて、きこえてくる音楽に、みずから歩みよることができるからだ。きいているのは自分なんだとふんぞりかえった時、音楽は、きいてもらっているような顔をしながら、なにひとつきかせていないということが起こる。ききての、ききてとしての主体性も、そしてききてならではの栄光も、きかされることにある。
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中学二年の冬だった。
「風見鶏の示す道を」を、この時、くり返し読んでいてよかった、と思っている。