Date: 3月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その6)

1970年代に登場したトランジスターアンプをすべて聴いているわけではない。
なのにおもうのは、意外にもGASのTHAEDRAとSAEのMark 2500の組合せこそ、
マッキントッシュのC22とMC275のトランジスターアンプ版といえるのではないか、と。

C22とMC275の組合せ、C28とMC2105の組合せは聴いたことがある、
といっても、比較試聴しているわけではない。
それぞれ別の場所で、まったく違うスピーカーで聴いたことがある、というだけでしかない。

どちらのアンプの組合せも、新品同様の性能(音)を維持していたのかは、はっきりしない。
そういう状態での、いわば記憶のなかでの比較でしかないのだが、
C28+MC2105は、C22+MC275とはずいぶん違った方向の音のように感じてしまった。

もちろんC28+MC2105に、C22+MC275そっくりの音を求めていたわけではない。
私が感じている音の良さを引き継いでいてほしかった、というだけのことで、
私がそう感じないからといって、他の人もそうだ、とは思っていない。

また、その音を聴いてもいないのに、
THAEDRAを落札した時から、Mark 2500との組合せは、
私にとってのC22+MC275のトランジスターアンプ版といえる存在になってくれるのかも──、
そんな予感が生れてきた。

マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せも、
また充分魅力的なのだが、この組合せはC22+MC275のトランジスター版ではない。

LNP2とMark 2500の組合せも、ちょっと違う。
あくまでも感覚的なことでしかないし、
こんな感覚的なことは、誰かに理解してもらう、なんてこととは無縁のこと。

つまりは、書いても無駄なことなのかもしれないが、
それでも私にとって大事なのは、そう感じてしまった、ということである。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    4月 1st, 2022
    REPLY))

  2.  黄金の組み合わせと呼ばれているマッキントッシュの管球式セパレートアンプC22プリアンプとMC275パワーアンプを、GASテドラプリアンプとSAE・Mark2500パワーアンプの中に見る。これは面白い組み合わせですね。それぞれ他社のものですが、電源ボタンやその他パネル面におけるデザイン上の類似性も見られます。
     これからの記事がとても楽しみです。私は2500もテドラも持っていませんが、宮崎さんを通した感想や、さまざまな思考を読むことができるということが嬉しいです。

     MC275とC22のトランジスター版を私も真剣に考えてみました。

     インパクト、影響という点からJBLのSG520プリアンプとSA400Sパワーアンプが相当するのではないかというのが私の考えです。
     MC275が当時、世間一般に抱かせた印象をひとことで言うと、圧倒的なハイパワーではないかと思うのです。そこがJBL(SG520+SA400S)と食い違うところで、これを選択するのは悩ましい所でした。

     1961年末、マッキントッシュからMC275が発売されたころ、既にハーマン・カードンはコンシューマー用ハイ・フィデリティ・ハイパワー・ステレオアンプとして60W出力のサイテーションⅡ型パワー・アンプリファイアと、I型プリアンプを完成させています。Ⅱ型パワーアンプの周波数特性は圧倒的でした。1959年の事です。
     プリメイン・アンプではH.H.スコットが1958年に40W出力の299型を発表していました。ローウェル研究所で博士号を取得したスコットは大学で教鞭をとる学者でもあり、オーディオ界における地位も高かったであろうと想像します。彼はハイ・フィデリティ再生を家庭に持ち込んだ貢献者でした。
     ハイファイ・ステレオのエポック・メイキングとしては、プリメインのスコットが、セパレートアンプではハーマン・カードンI型とII型が、マッキントッシュよりも先に存在している状況でした。
     マランツもステレオ始動は早く、練り上げられたデザインで高い評価を得ていました。
     ラファイエットやパイロットなど、多くのキットやワイアードがひしめき合う中で、35W出力のダイナコ70パワーアンプは、ステレオ製品の中では、かなり初期の段階に登場したハイ・ファイ・キットでした。ワイアードも売られていたものです。
     回路面におけるマッキントッシュのオリジナリティはユニティ・カップルド回路ですが、既に1960年には同回路を搭載したMC240型ステレオ・パワーアンプを同社から発売させています。ブライアン・ウィルソンが使用したことによって、歴史的な価値の付随するアンプです。このころのマッキントッシュのプリアンプはまだC20型だったと思います。季刊ステレオサウンド誌50号(Stage of the Art)の中で上杉佳郎は、ローレベルと高域の歪の少なさについて、MC275よりもむしろMC240は秀でており、クオリティとパワーの両立性において価値あるアンプであると記しています。
     フィッシャーのステレオ・パワーアンプSA1000(75W)はまだ発売前でしたから、MC275が登場した時の出力75Wという数値は、ステレオ製品の中では圧倒的なものです。数あるスペックの中でも出力はオーディオファイルが一番に目を付けるところです。
     1960年前後のアメリカは、モータリゼーションが強い価値を持っていました。「理由なき反抗」はこの頃の車文化をよく映しています。モーターサイクルのウィールを思わせるMC275のパワフルなクローム・メッキや、都会の夜を思わせるC22プリアンプのイルミネーションは、まさにミッド・センチュリー・アメリカを感じさせるものと言えるでしょう。
     当時の人にとって、これらのインパクトは相当なものだったのではないかと思います。

    「欲望と言う名の電車」で名声をあげたマーロン・ブランドは既に37歳。「理由なき反抗」で知られる俳優でサーキット・レーサーでもあるジェームズ・ディーンが、もし自動車事故で他界していなければ30歳―、という時代です。フレッド・アステアが流行っていた時代とは違い、エレガンスよりもパワフルであることが好まれるようになっていました。マッチョイズムがあらゆる層に浸透していく時代の中にありました。この年齢層は高級ハイ・ファイの購買層と一致していたでしょう。
     大統領は第二次大戦などで活躍した軍出身のアイゼンハワーで、1955年にベトナム戦争が勃発、彼らはまさにモータリゼーション文化の申し子といえる存在でした。
     ライバルのH.H.スコットもまた、モータリゼーションの影響を感じさせるデザインを持っています。アメリカのライフ・スタイルと調和を図ったと思われる130型プリアンプと290型パワーアンプは、いかにも学者らしい発想を持ちます。計器類のようなランプが点灯するパネルをもつプリアンプと、自動車のボンネットを思わせるパワーアンプからなる、スコットのセパレート型のステレオ・アンプリファイアーは、シボレーやキャデラックを思わせるものです。スコットは普及品まで広く展開していたため安物のイメージを持たれがちですが、純然たるハイ・フィデリティ世代のアンプでした。

     モータリゼーションは、悲しみもまた生みだしました。戦争、そして、事故です。58年にはエルビスが徴兵され、59年初頭には3人のロックスター、バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスを乗せた飛行機が墜落しました。ドン・マクリーンのヒット曲「アメリカン・パイ」に出てくる「音楽が死んだ日」は、この日のことです。
     後に映画「アメリカン・グラフィティ」や「グリース」では、この時代の若者の、凶暴なモータリゼーション文化を描写しています。先述した「理由なき反抗」でも、少年たちが自動車を使って危険な遊戯をするシーンがありました。
     1960年前後はデザインにおいてどのような時代だったでしょうか。アールヌーボーからの反動と、産業主義から発生した幾何学的で大衆的なアールデコ・デザイン。そして流線形の時代への変遷。また、インパクトあるプロパガンダ・デザインを踏襲していった戦後のアトミック・エイジたちは、いわゆるミッド・センチュリーとよばれる、工業デザインの時代に突入していました。
     1964年にはアンディー・ウォーホルが洗濯用洗剤を美術館に陳列しました。彼は工業製品や複製技術もアート足り得るということを主張し、アートの概念を覆しました。
     1959年、ファッションの世界ではピエール・カルダンがオートクチュールのデザイナーとしては初めてプレタポルテを発表しました。工業デザインが急速に発達した時代で、クラフツマンシップの精神に工業化、大規模化の波がなだれ込んでいました。プロフェッショナルイズムが幅を利かせ、アマチュアイズムが崩壊しはじめた時代でした。
     オーディオ製品ではインターホン、トランジスタ・ラジオが発明されます。左右のスピーカーの中央に音の焦点を結ぶ、ステレオ再生が始まったころです。映画のワイドスコープで「ステレオスコープ」という規格がありましたが、別に2台の映写機で映していた訳ではありません。これは、横に長い画面がステレオフォニックに感じられるという意味です。ここで見えるのはステレオという言葉に痺れている時代性です。デジタルという言葉が持てはやされた時代に、「デジタイヤ」というゴムタイヤの商品がありましたが、それと同じです。デジタイヤは別に走行中に何かの演算しているわけではありませんでした。

     トランジスターは時代の寵児であり、50年代には「トランジスター・グラマー」という言葉さえ生まれました。波は確実に押し寄せていました。
     ビーチ・ボーイズの「スマイル」はアメリカの歴史を描いたコンセプト・アルバムです。ハイライトの「サーフズ・アップ」は時代の潮流のなかでドミノのように倒れていく旧社会と文化を描いています。ブライアンのボーカルトラックが見つからず、弟のカールが吹き替えて発売していましたが、今では2011年に見つかった本物の「サーフズ・アップ」が聴けるようになりました。絶叫するブライアンのハイトーンには背筋が凍ります。ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」と一騎打ちするはずだった、ロック史における幻の名曲です。
     1960年にアルマ・コーガンが歌った「ポケット・トランジスター」は民主主義と大衆性がはっきりと感じられますが、高級セパレート・オーディオの世界がその層を対象としていたとは思えません。いわば、そういった大衆主義とは距離を置いた文化的階級の人々―。そうした人々が高級ハイ・ファイの消費者層として存在していたと思うのです。
     リビングにおける高級セパレートアンプ。今日においても、それは非常に文化的で贅沢なパーツです。当時、この分野は大量生産品ではなく、まだクラフツマンシップにアマチュアイズムが入る余地のある領域でした。
     フィッシャーの製品は、20世紀の良識にあふれたクラシカルなデザインを持っています。フィッシャーは自身もヴァイオリンをたしなみ、音楽を愛した人でした。後に多額の寄付によってリンカーン・センターにエヴリフィッシャーホールを建築しました。プリアンプ400C、SA1000パワーアンプはマッキントッシュの良きライバルになったことでしょう。
     20世紀は殺戮の世紀です。科学による血なまぐさい大戦が終わり、また、科学により豊かになったことで、工業化に対し楽観的な大衆が生まれました。しかし、その大衆とは少し距離を置いているのであろう文化的階級の人々にとって、フィッシャーの最高級品は美と良識を感じさせるものだったに違いありません。
     さて、よくよく見るとマッキントッシュのデザインには、マッチョイズムやヤンキー・パワーに偏りきらない、ある一定の節度が見てとれます。それは、聖書の表紙に印刷されているような、あの古めかしく重厚な字体のロゴにも表れています。このロゴは、同社でも安価で販売していた総合レシーバーには、使用されていませんでした。それぞれの消費者層に適合するよう、それぞれにデザインを配慮したものではないかと思います。
     マッキントッシュがステレオ期を迎えて、プリアンプがC22に至るまでにC20、C11というモデルのプリアンプが存在していました。C20は初のイルミネーションパネルとして斬新さはあったものの、品の良い真鍮のブラスを使用しており、年月とともに風化して味わいを増す旧式のプリアンプ(同社C4やC8)のエレガンスを引きずっています。逆にC11はかなり未来志向に感じられます。時代を考慮した場合、C22がこの頃の人々を最も魅了しうるデザインを持っていると思います。
     ハーマン・カードンは強力なライバルだったことでしょう。サイテーションは英語で「召喚」と言う意味です。いかにもハイクラスな近代人を対象としているであろうと感じられます(大衆はこの言葉をあまり使わない)。
     建築家のフランク・ロイド・ライトをはじめとする、アール・デコの流れを汲むデザインを持っています。このデザインには、抽象芸術をたしなむ知的階層を、消費者とみなしたであろう意図を感じます。また、アートが美を超えた価値を求めていた時代の、重厚なアヴァンギャルディズムも感じさせるものです。同社がニューヨーク近代美術館のすぐ近くに所在していたこととも、関連付けて考えると面白いように思います。
     同じニューヨークのメーカーでも、マッキントッシュの製品には、もう少しライフ・スタイルに寄り添った印象を抱きます。マッキントッシュC22およびMC275は、メランコリックな都会の夜を演出することも出来るでしょう。しかしそれは、あくまで生活の活力にあふれた印象の音であり、シュールやダダが持つような漠然とした不安や、虚ろな空洞さといったイメージのものではありません。
     ニューヨークという所は意外と雨の多い所です。霧のロンドンよりもはるかに降水量が多く、月によっては東京以上に降ります。マンハッタンの川向うには豊かな森が茂っていますし、意外と自然豊かなところなのです。温帯地域としてはかなり降水量の非常に多い地域ですから、地面の石は黒ずみやすく、木板はペンキを塗らなければすぐに風化し、アスファルトも割れやすいという特徴があります。ニューヨークのロフト・アパートメントが、ああした高い天井や開口の広い窓を持っているというのは、まずはカビ対策によるものでしょう。カーテンを付けない事も石造家屋のカビ対策としててき面な効果があります。こうした風土的な類似性からくる音色の感触というのは、ある種日本人の心の琴線に触れるところではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
     東海岸のスピーカーの持つ高域を落とした設計は、明らかに石の家屋での定在波を避けたものであろうと思うのですが、アンプというパーツはスピーカーと違って高音を落として発売するという事ができません。そのぶん、気候的な音色や感受性の面がストレートに反映されるように思うのです。マッキントッシュの製品を、自然な音色を持ったスピーカーと組み合わせることによって、我々日本人にとっても情景を思い描きやすい身近な音色を聞くことができます。
     それはお日様をいっぱいに浴びた明るいサウンドではありませんが、明け方の森の中の教会でひっそり鳴らされるパイプオルガンや、古楽器の典雅な響きというような音色は、意外とマッキントッシュの得意としている所ではないかと思うのです。また、ニューヨークは日照時間の短い場所ですから、ある種の暗さも感じさせます。しかし、そう鳴らしようによっては、そう不自然ではないのです。
     特にこういったサウンドの傾向はMC30やC8といったモノーラル時代の製品に色濃く表れているように思えます。たとえばジョージアンをモノーラルのマッキントッシュで鳴らすというような場合にです。
     ブライアン・ウィルソンがペット・サウンズの頃にアコースティックなロックに傾倒していったというのは、MC240のサウンド・イメージと合致したからではないかと私は思っています。
     ステレオ時代のものはモノの時代より、わずかに都会的な傾向を強めているように感じます。ジャズのライブ録音などを聞けば、非常に都会的な夜のサウンドを聞かせてくれます。
     ここでいう都会的というのは未来的という意味ではありません。ファンタジーで育った21世紀の現代人にとって、都会的なサウンドとはテクノ・ミュージックのような近未来的なサウンドを連想するかもしれません。しかし、当時の人が思い描いていた都会性とはそのような音楽ではありません。都会とは密集都市であり、人間の往来が多い地域のことです。
     例えばその時代、都会の音楽と言えばそれは、クリス・コナーのことであり、ガレスピーのことであり、ナット・キング・コールのことであったわけです。それらを音はアコースティックな楽器によって演奏されているものが中心ですから、ナチュラルな音色を持たせなければ再生できませんでした。それが管球時代のマッキントッシュの傾向だと思うのです。
     それに比較して、トランジスター時代のマッキントッシュというのはグレイトフル・デッドをはじめとするヒッピー文化の象徴でもあるわけですね。トランジスター時代にマッキントッシュが生き残ることができたのは、パブリック・スペースにおける圧倒的な安全性と、変換効率の高さだったわけです。ロックンロールのゴールデン・エイジにとってC22やMC275、240があるように、サイケデリック・ロックを愛したヒッピー達にとってMC2500という存在があったのだと思います。ただ、プリアンプのほうはガラス・パネルを利用していて、一般のコンサートでは使いづらいものですから、ジェリー・ガルシアあたりの写真を見てもプリアンプは使っているものは見た覚えがありません。業務用のギタープリやリバーブタンクからMC2500に直接つないでいたのではないでしょうか。
     そうなると、MC2500と対になる象徴的なプリアンプというものが思い浮かびません。また、これらの間には業務用と家庭用という不一致があります。

     JBLについては西海岸のメーカーなので、ちょっとマッキントッシュとはイメージが離れるなという気もします。ただ、トランジスターという新しい時代を象徴するデザイン(サウンドも含め)を持っていたことは事実です。民生用の高級セパレートステレオ製品であるという共通点もあります。
     1960年あたりのその当時、マランツは最高級としてのイメージを持たれていたようです。普及品を作らなかったことは大きいでしょう。フィッシャーやスコットに高級品が無かったわけではないし、それらは今でもいくつか現存しているようです。
     マランツ7型プリアンプのパネル・デザインはシンプリティーにあふれていました。コンポジションの美を感じさせるものです。
     この時代はシンプリティーの時代です。オードリーヘップバーンのほとんどの服を手掛けたジバンシーは、非常に直線的なデザインを生み出しました。また、飾りを排除することで、新たなエレガンスを追求しました。
    ちなみにジバンシーは初めてオードリーを見た時に「ちょっとまて、ヘップバーンってキャッシー(キャサリン・ヘップバーン)じゃなかったのか!」と叫んだそうです(笑)。
     「極度にシンプルにすることが明日へのシルエット」と言ったのはイブ・サン・ローランでした。むろん、彼らはまだ貴族や経済的な特権階級を消費者層とみなしていました。それはマランツも同様でしょう。マランツは当時、普及品を作りませんでした。大衆性と隔たりながらも、既製服産業やユース・カルチャーを無視する事はできないという点もまた、マランツと類似するポイントです。
     マランツの時間軸におけるエキサイト(熱気)の推移は見事です。マランツは演奏者の息づかいを感じさせる不思議な技術を持っていたようです。
     シンプリティーとコンポジションの美にあふれたマランツの製品は、非常にエレガントなものです。しかし、フィッシャーほどはクラシカルなものではありませんでした。かといってスコットやマッキントッシュのようにモータリゼーションを感じさせるものでもなく、また、芸術的な雰囲気を持っていながらも、サイテーションよりは随分馴染みやすいデザインを持っています。
     マランツに比較するとマッキントッシュのデザインには階級的に突き放した雰囲気が薄らいで感じられます。それは非常にユーモアを感じさせるもので、20世紀のユースカルチャーやモータリゼーションのライフ・スタイルの持つ、ポジティブな息づかいが感じられます。
     そういったユーモラリティーという観点から見ると、GASのテドラ(プリアンプ)とアンプジラ(パワーアンプ)という組み合わせに共通点が感じられます。60年代のアメリカン・ユーモアを70年代にブラッシュアップしたものという印象があるのです。ウェザーリング加工を施したかのような、ダーティーなレベルメーターを備えたアンプジラは、映画スター・ウォーズに出てくるロボットのような顔を持っています。
     スター・ウォーズはベトナム戦争に敗戦したころにアメリカで作られた映画です。パワーと圧力で小国を抑える帝国軍に、アメリカの近代史を見ることができます。
     精神科医でベトナム戦争下に従軍医をつとめたM.スコット・ペックは「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」の中で、精神の腐敗したアメリカ社会を痛烈に批判し、ベストセラーとなりました。善と悪を詳細に定義し、人間の精神の本質に迫った歴史的名著だと思います。ジョージ・ルーカス(スター・ウォーズの監督)とM・スコット・ペックは、ベトナム戦争後のアメリカの思想に、多大な影響を与えた重要な人物と言えるでしょう。私はGASのテドラとアンプジラに、この時代の情景を見ます。
     不思議なことに、この3人には東洋の影響が非常に色濃くうかがわれます。
     GASのアンプリファイアを設計したジェームズ・ボンジョルノが日本好きだったかどうかは知らないのですが、彼は相撲が好きという理由でスモウというメーカーを立ち上げています。また、「ゴジラ」というアンプも作っています。ゴジラは日本のSF映画作品です。
     ペックはキリスト教徒でありながら仏教をたしなんでおり、アジア系の女性と結婚して勘当された経験があると言います。彼は学生時代、彼女に資金的な援助を受け勉強を続けることができ、心からの善意を経験したのだと言います。
     スター・ウォーズは時代劇のオマージュとも言える内容のスペース・オペラです。宇宙船や主人公たちが薄汚れているのですが、ことについては黒澤映画の影響だとルーカスは語っています。この映画ではたびたび「執着」の問題が取り上げられ、日本の時代劇のような戦闘シーンや、火葬シーンを映すなど東洋をモチーフにしたシーンが数多く描かれています。また、作品の裏側にはヨーロッパ史の壮大な歪みが浮かび上がります。そこに既存のイデオロギーを疑う、探求的なヒッピー世代の特質が感じられるのです。
     MC275とC22はハイファイとパワーを意識させるアメリカを、自己肯定する時代の製品であると感じます。これに比較し、GASのテドラとアンプジラというアンプには、アメリカを一方で愛しながらも他方で否定するといった一種憐憫の情を感じます。
     サイモン&ガーファンクルが「アメリカ」の中で「ぼくらはアメリカを探していたんだ」と歌ったのは、ちょうどこの頃のことです。ディランもブライアンもカーペンターズも、みんなアメリカを探していました。それは、イーグルスも同じでしょう。
     第二次世界大戦に勝利し、その躍動のままにベトナム戦争に進んだ時のようなパワフルさは、1970年代のトランジスター世代には見られません。
     真空管時代のMC275とC22という組み合わせと同等なセットを、トランジスターアンプの中から見つけようと考える時、モータリゼーションやゴールデン・エイジのミッドセンチュリーを意味するとは限らないように思います。
     GASのサウンドは非常にパワフルなイメージを与えます。しかし、生々しい生気を感じさせると同時に、モータリゼーションの陰りをも感じさせるのです。音を聞けばそれは、非常に真面目なものです。楽観的な享楽は感じられないし、成金じみた欧米の煌びやかさとは無縁であり、人間のリビドーや深層心理を、深く鋭く見抜く確かな目を感じさせてくれるものです。そういった点において、私は非常に普遍的な価値の高いアンプだと思うのです。
     私は、MC275とC22が愛された要因そのものではなく、それが時代に合致したという現象をとらえるほうが音楽的であるような気がします。音は物体ではなく現象であるからこんな事を思うわけなのですが、やはり時代を象徴するということが、一つのポイントになるのではないかと思うのです。
     そう考えると、テドラとアンプジラはかなり良い回答であると感じられます。ただ、年代としては、トランジスター登場よりかなり後の製品になり、そこが悩ましい点です。
     高級ハイ・ファイの世界としては、1963年にアコースティックのパワーアンプIa型とプリアンプのII型が、トランジスター式ステレオアンプとして登場します。私は聞いたことがありません。柔らかい音だったようです。この時代は高級機の分野ではまだトランジスターに懐疑的だった時代だと聞きます。ですから、トランジスターが抱かせていた鋭いとか、耳障りだといった印象を、極力抑えようと試みた製品なのかもしれません。そういうわけで、「これがトランジスターだ」「もう真空管は古いんだ」という驚きというものは感じさせるに足らなかったのではないかと思います。
     また、先ほども申しましたが、MC275とC22はハイファイアンプの祖ではありませんから、アコースティックスのアンプ群はこれに該当しないように思います。

     こうして見てみると、管球式の長い歴史の中でも、ステレオ・ハイ・フィデリティ製品の時代というのは、ごくごく短い期間であることが分かります。トランジスターが発明され、庶民のオーディオは殆ど半導体に置き換わるわけです。そして、ハイ・フィデリティにもトランジスタが侵入していくわけです。私は、このスピード感を理解する事が選定のポイントだと思うのです。

     この時代の工業化したハイ・ファイ企業は、その後のマネーゲーム社会の中で買収されていくようになります。マッキントッシュは安全性という目的からトランジスターアンプに旧来の技術である出力トランスを積ませるという、いわば温故知新のアイデアによって奇跡的に生き残りました。しかし、その後ハーマンに買収されています。マランツもスコットもフィッシャーも、やはり買収されてしまいます。スコットとフィッシャーは規模が大きかっただけに、普及品を大量に生産しており、そのことが原因でブランド・イメージの獲得にいたらず、そのために21世紀の今日では、マランツやマッキントッシュほどには有名ではない―、こういった知名度における逆転現象が起きていることは興味深いことです。
     しかし、理論派のスコットや良識派のフィッシャーが過去に隆盛し、時代と文化をけん引していたことは忘れてはならないでしょう。
     さて、マッキントッシュはスコットやフィッシャーと比較すれば、むしろ弱小のメーカーであり、また、そのぶん旧式のアメリカ人が持つ、良心的で善良なクラフツマンシップがしっかりと息づいていたメーカーだったと言えるのではないでしょうか。
     ミッド・センチュリーのアメリカには、未来への理想を探求する心と、善良な精神がまだ残っていました。アイクマンが新自由主義を唱える前の、非常に大規模な中産階級が存在していた時代です。
     例えば、KLH(アメリカの音響メーカー)では、社内に保育園を設けるなど、女性の社会進出ということをものすごく重視していたメーカーでした。まだ小学生だったので記憶が定かではないのですが、60年代中頃に発刊されたLIFE誌(アメリカのグラフ誌)の中の記事だった記憶しています。レンガ造りの工場でスピーカーを作っている女性工員の、多幸感あるパワフルな写真と、アメリカという国のポジティブさに圧倒されました。その時見たKLHという会社のスピーカーとは、後に再び出会う事になりました。
     マッキントッシュは巡業のクリニックカーにアメリカ全土を巡らせるというメンテナンス・ルーチーンをこなしていました。それらの行動というものは、あまりに善良であり、あまりにアメリカ的で、途方もない自由と驚くほどの愛に溢れていました。ノーマン・ロックウェル(アメリカの職業画家)が描いたような、古き良きアメリカの姿が、その製品を通じて感じられるのです。
     マッキントッシュの製品には、アメリカの良心を感じさせるものがあります。アメリカらしさというものは、自由について真摯に思考を連ねてきた歴史の、その深みの中にあるのだと思います。それが最も端的に表れているのがマッキントッシュというメーカーであったように私は思うのです。
     そういった雰囲気やクラフツマンシップをトランジスターアンプに求めるならば、大規模大手メーカーのトップ・モデルは選択できません。
     だからといって、個人経営のガレージメーカー製品に、管球時代のマッキントッシュを感じる事はできません。他社の部品を集めて合理的にアッセンブリーしていくスピーディーな会社も同様でしょう。今回の意図には該当しないように思われます。
     C22およびMC275に感じられるのは、チーム・ワークを基礎とした、理解し合い、ゆるし合う20世紀の心の文化です。そういったことを踏まえると、中規模クラスでゆとりのある、クラフツマンシップの息づいたメーカーの製品を選びたいということになります。
     しかも、できればアメリカを感じさせるもの。そして、それが発売された時代に性質が合致していて、人々を魅了したハイクラスなアンプ…。
     そうです。これはかなり難しい選択だと思います。ステレオの歴史としては半導体の時代のほうがはるかに長いはずです。その分、製品数が多く、選択肢も多いような気がするのですが、ぽっと浮かんでくるものがなかなかありません。トランジスタとFETを分けて視野を狭義化するというのも、なにか逃げているような気がします。FETの登場はトランジスターの登場ほどは世界にインパクトをもたらさなかったはずだからです。
     すると、集積回路ということになりますでしょうか。そうするとマーク・レビンソンのLNP2プリアンプが思い当たるのですが、LNP2には決められたパートナー(メインアンプ)がいないのです。MC275とC22という存在は、いわばレノン・マッカートニーのような強力なペアリングを持つところに、その特徴があると思うのです。

     先ほどMC275とC22は、ハイファイ・ステレオの祖ではないと申し上げましたが、ステレオが登場した当時のアメリカにおいて、真新しさ自体はあったはずです。サイテーション1、2の発売からは幾何も経っていないわけです。このスピード感がMC275とC22にインパクトがある要因だと思うのです。つまり、ハイ・フィデリティ・ステレオの時代が来てわりとすぐにC22とMC275が登場したという事です。
     したがって、そこを踏まえると、トランジスターが出てから何十年もたって設計されたアンプをここで選ぶのは、ちょっとおかしいと感じるわけです。ということは、トランジスターアンプのアコースティックⅠA&Ⅱが発表されてから、あまりに時代がかけ離れた製品というのは、どんなに音が良くても該当しないように思えるのです。ステレオの時代がやってきて、そのすぐ後にトランジスターの時代がやってきた…。という歴史があるわけですから、現代の高級アンプはやはり対象外でしょう。MC275には時代に対するスピード感があったはずです。そして、その時代性が受け入れられたために、ロングランで売れたわけです。
     それを考えるとアコースティックより後に出たSG520とSA400SというJBLのセパレートアンプが浮かんだわけです。
     ただ、アンプというものはスピーカーと違って物理的なデータによって圧倒しないとならない事情があるわけです。そうすると、SA400Sは出力も小さいですし、歪率もずば抜けているとは言い難い。ダンピングファクターもそんなに高くないという―。
     しかし、ことにデザインに関しては時代を反映していると言って差支え無いのではないでしょうか。
     SFの最高傑作と言わしめる「アルジャーノンに花束を」が書かれたのが1959年で、翌年にヒューゴー賞を、その改訂版が1966年に発表されネビュラ賞を受賞しています。この時代はSFが高度化し、大量消費社会の歪さの中で、その探求的特質を高めていました。映画「猿の惑星」は1968年に公開されています。
     SFはジャズと同様に、マスが侵入したことによって浸透と拡散を起こし衰退しました。しかしながら、当時は純文学にも勝る探求的英知の源泉にもなっていたと思うのです。それは民主主義的な性質をもった懐疑性を持つということでありましたから、貴族階級的な煌びやかさとは無縁のものでした。
     そういった時代にあってSG520のパネルフェイスというものは、時代の雰囲気を先取りしているよう見えるのです。だからと言ってトレンディに浮っついたところなどがなく、作品の完成度は非常に高いと思えるのです。見れば見るほど、ほれぼれするような仕上がりで、ツマミなどは切れそうなくらいスクエアに仕上げられ、研ぎ澄まされた精神の思慮を感じさせてくれます。これはC22のデザインと比較してもまったく引けをとるものではないでしょう。
     そういう訳で、パワーこそ劣るもののJBLのSG520プリアンプとSA400Sパワーアンプのペアーが、MC275とC22のトランジスター版にふさわしいのではないかと考えたわけです。

     ちなみに私はこのJBLのセットをあまり聞いたことがありません。パワーアンプのほうは少し型番が違って、SA408Sというスピーカーに組み込めるタイプのものでした。私が聴いた時の再生音は、歯切れの良いハットが実に多様なリズムを示して、颯爽とした印象が屈託のないものでした。

     ただ、この考えは条件によって異なるものですから、難しい所です。MC275を真空管末期の名器とみなすならば、トランジスターはまだまだ現役ですからトランジスター末期の名器というと未来のことになってしまいます。
     あるいは音質的な類似点という話になると、エキスパンダーを搭載したマッキントッシュのC40プリアンプリファイアーとMC300パワーアンプのペアーを、私としては選びたいところです。管球式の持つ、被写界深度を浅くした音の明暗の自然さというものを、かなり演出できるように思います。

    1F

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