戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その3)
「風見鶏の示す道を」での駅員と乗客(旅人)の会話と会話のあいだに、
レコード(録音)について、レコードをきくという行為についての記述がある。
*
ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。そのレコードをきいたのは自分だと思いこんでいる。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。それは、一面でいえる。しかし、少し視点をかえていうと、彼はきかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね──という。そういって、いっこうにかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね──というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができないからだ。
楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって演奏家にきかされている──ということになる。
それがレコードになった時、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとつの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
ここでひとこと、余計なことかも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
*
汽車はレールの上を走る。
音楽をきかされている、というたとえでいいかえれば、レールの上を走らされている。
汽車の乗客は乗っているだけである。
車を運転するのと違う。
スピードの自由度は乗客にはまったくない。寄り道の自由もない。
汽車の乗客は、
車での旅人よりも受身、受動的な態度の旅人なのだろうか。
駅員と乗客の会話(対話)はつづいていく。