戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その8)
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」といっていた旅人は、車掌とともに汽車にのる。
目的地である駅をめざす。
どこかの駅に向う。
目的地につくには、ある時間を要する。
その駅がどこにあるかで、その時間が長くなることだってある。
しかも、その駅は目的地であるけれど、最終目的地とはいえない。
おそらく目的地(駅)についた旅人は、またいつの日か、次なる目的地をさがすことになる。
そのときトランクの中のレコードは、最初の旅立ちと同じではないはず。
様変りしているかもしれない。
旅人は、また車掌にたずねるのだろうか、「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」と。
いま「風見鶏の示す道を」を読み返すと、あれこれ考えてしまう。
「風見鶏の示す道を」はオーディオ誌に書かれたものだ。
旅人は誰なのか、車掌もそうだ、誰なのか。
駅はなんなのか、なぜ汽車なのか。
これらが示唆するもの。
書く必要はないだろう。
オーディオマニアならば、そうやって生きてきた(いる)からだ。
旅人はいくつかの駅にたどり着く。
いくつの駅だったのかは、わからない。
最終目的地と思える駅に、彼はたどり着けるのだろうか。