戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その4)
乗客は、どの汽車にのったらいいのかわからなかった。
けれど、彼はききたいレコードははっきりとわかっていた。
だから駅員に「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」といい、
トランクをあけ、一枚のレコードをとりだす。
ピアノのレコードであった。
「風見鶏の示す道を」でははっきりと書かれていないが、
乗客の手荷物はレコードでいっぱいになったトランクだけのようである。
乗客が「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」と示したレコードを、
駅員は手に取り懐しげな表情をして、さらに乗客にたずねる。
「ききたいのは、このレコードだけですか?」
乗客はトランクの中いっぱいのレコードを駅員にみせる。
駅員はますます懐しげな表情をして、こういう。
「そうでしたか。あなたのいらっしゃりたいところは、あそこだったんですか。よくわかりました。さあ、まいりましょう。ぼくは、あなたがいこうとしているところにむけて出発,仕様としている汽車の車掌なんですよ。間もなく汽車の出発の時間です。」
乗客がどこをめざすのかがはっきりしたのは、一枚のレコードでは無理だった。
トランクいっぱいのレコードゆえに、駅員は理解できた。
黒田先生は、一枚一枚のレコードを新聞にのっている写真の、ひとつひとつのドットにたとえられている。
いまの新聞の写真はカラーがずいぶんきれいになったけれど、
「風見鶏の示す道を」のころの新聞の写真はずいぶんと粗いものだった。
モノクロの写真は、点(ドット)の集合したものでしかなかった。
ドットを凝視しても虫めがねでみようと点は点にかわりない。
ところが、ある距離をおくと、人の顔であったり、風景であったりするのがわかる。
人の顔の表情までわかる。
一枚のレコードは点であり、
トランクいっぱいのレコードによって一枚の写真になり、
行き先のわからない乗客にかわり、何かを駅員に語っている。