戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その10)
なにもカラヤンをきく人は、古楽器による演奏をきいてはいけない──、
などといいたいわけではない。
ある人は、レーベルでいえばオワゾリールやアルヒーフの音を好んでいた。
このふたつのレーベルのLPやCDを買っては鳴らしていた(きいていた)。
彼自身の音の好みも、このふたつのレーベルに共通したところのあるものだった。
彼が、だからふたつのレーベルを好むのは自然なことだったのかもしれないし、
そういう音に自分のシステムの音を仕上げるのも、また彼にとっては自然な行為だったのであろう。
だが彼は、そういうシステム・音できいて、カラヤンは素晴らしい、という。
彼の音の好みは変ることはなかった。
彼の音も大きく舵を切ることはなかった。
そういう音で彼はきいて、カラヤンのブルックナーは素晴らしい、とまた言う。
カラヤンのブルックナーでの響きと、彼が好む響きは、いわば相容れないようにしか、私には感じられない。
そういえば、おそらく彼は「音楽をきいている」というだろう。
けれどくり返すが、音楽と音は呼応している。
豊かさを拒絶した響き(それを響きといっていいものだろうか……)で、カラヤンのブルックナーをきく。
ジャズでいえば、ルディ・ヴァン・ゲルターの録音したブルーノートのアルバムを、
ECM的な音できいて、素晴らしい、といっているようなところがある。
ここにちぐはぐさがある。
「風見鶏の示す道を」のなかに、こう書いてある。
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残念ながら、その点でちぐはぐな例も、なくはない。最新鋭の装置をつかいながら、今となってはあきらかに古いレコードを、これがぼくの好きなレコードです──といってきいている人がいる。それはそれでかまわないが、その人はおそらく、どこかで正直さがたりないのだろう。
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私にも同じことがあった。
好きなレコード(演奏)と好きな音に、どこかちぐはぐなところがあった。