Date: 3月 29th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その39)

シーメンスのコアキシャルの平面バッフル(190×100cm)のあとに選択したのは、
セレッションのSL600だった。
SL600にして、目の前にやっと壁があらわれた。それまでは平面バッフルが壁で、
その後にあるほんとうの壁は、ほとんど聴取位置からは見えていなかった。

パワーアンプも換えた。
SUMOのThe Goldを手に入れたのは、SL600を使っているとき。
The Goldで鳴らすSL600に、なにか不満があったわけではないけれど、
取材でたまたま聴いたQUADのESLの音に、ころっとまいってしまった。

狭い部屋にESlは、ちょっと無理だろう、と思い、SL600のまま行こう、という気持と、
どうしてもESLの音の世界は自分のものにしたい、という気持。
1ヵ月ぐらい迷って、ESLを手に入れる。

このときは、まだ気がついていなかったけれど、
私にとってロジャースのPM510とQUADのESL、それにジャーマン・フィジックスのDDDユニット、
そしてThe Goldには、共通するものがある。
このことに気がつくのは、ずっとあとのこと。

このときは、音色的な魅力に惹かれてESLを選んだ、と思っていたけれど、
じつはちがうところにあった。

Date: 3月 28th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その38)

シーメンスのコアキシャルで音楽と向かい合っていた時期に、
ノイマンのカートリッジDSTとDST62を借りて、かなりの時間をじっくり聴くこともできた。

この途で進んでいくということは、スピーカーはいずれオイロダインということになる。
そのころは、25cn口径ウーファーを三発搭載していた後期モデルが、
無理すれば新品で手にいるかどうか、という時期でもあった。

でも心底ほしいのは、その前の型のオイロダインである。
中古でしか入手できないオイロダインであっても、いつかは、と思っていた。
と同時に、オイロダインにふさわしいだけの空間を、はたして用意できるのだろうか。

いま使っているコアキシャルにしても、平面バッフルの大きさは、
大きく生活とのバランスを欠いたものである。
狭い部屋の中に板がそびえている。それも2枚も。

それにカザルス、フルトヴェングラー、モノーラル時代のLPばかりを聴くわけではない。
ケイト・ブッシュも聴く。グールドも聴く。そのほかにも、新しい演奏家のレコードも、とうぜん聴いていく。

システムを2系統持てるだけの余裕があれば、シーメンスの世界は大事にしていきたい。
けれど、結局のところ、ひとつだけのシステムということになると、ワイドレンジのシステムをとる。
これは、基本的にいまでも同じだ。

オイロダインにふさわしい広い空間は用意できない。
それでもモノーラル鑑賞用に、1本だけほしい、とは思う。
オイロダイン2本分の空間は必要としないだろうから……、そんな未練は残っている。

もっともカザルスのベートーヴェンの7番はステレオ録音である……。

Date: 3月 28th, 2011
Cate: サイズ

サイズ考(その69)

アナログ全盛時代には、サイズの大きさは、性能の高さともかなり密接に関係していたところがある。
とくに入力系に関しては、その傾向が強かった。

テープデッキでは、カセットテープよりもオープンリールテープのほうが、格上の存在としてあった。
オープンリールテープデッキでも、音をよくするためにテープ速度を増していく。
それに反比例して録音時間は短くなるから、リールの号数も大きくなっていく。

アナログプレイヤーもそうだ。927Dstという存在があったし、
マイクロの糸ドライブ(のちにベルトドライブに)も、
瀬川先生がやられていたように、二連ドライブという方法もあったし、
同じ構造のトーンアームなら標準サイズのモノよりもロングアームのほうが、一般には音がよいといわれていた。

とにかく性能(音)を向上させていくには、物量を投じていく必要性が、あのときはあった。

デジタル時代になっても、しばらくは同じだったといえる。
コンパクトディスクという名称にふさわしいCDプレイヤーを最初に送り出してきたフィリップスでも、
CD63とLHH2000とでは、ずいぶんサイズは異る。
このふたつはコンシューマー用とプロ用という違いがあるため、
サイズを同列には比較できないところはあるけれど、
この2機種のサイズの差は、そのまま音の差にもなっていると、やはり思ってしまう。

最初は一体型しかなかったCDプレイヤーにも、アンプ同様、セパレート型が登場してきた。
44.1kHz、16ビットというフォーマットのなかで、音を良くしていくために物量が投じられていった。

Date: 3月 27th, 2011
Cate: 理由

「理由」(その26)

「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」だと、シモーヌ・ヴェイユがいっている。

この「力」を得るために、ときに音楽を必要とする、とはいえないだろうか……。

浄化とは、五味先生にとっての、音楽を聴くことでの「浄化」とは、
よくいわれるような浄化と一緒くたにはできないところがあるように感じている。

なぜ五味先生はベートーヴェンを聴かれたのか、
カラヤンのベートーヴェンではなくフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴かれ、
そしてポリーニのベートーヴェンに激怒されたのか。

Date: 3月 27th, 2011
Cate: 基本

「基本」(その9)

「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)を思い出す前から、
瀬川先生の「本」を出すと決めたときから、
ひとつ決めていたことがある。

瀬川先生の「本」のタイトルに関して、だ。

メインタイトルは未定だけれど、サブタイトルは最初から決めていた。
audio identity (beginning) 、である。

このブログのタイトルのほとんど同じだが、私は audio identity を、或る意味としても捉えている。
その発端であるから、beginning をつける。

Date: 3月 26th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その17)

アリス・アデールのピアノによる「フーガの技法」の最初の一音を聴いて、そしてもう一音が鳴ったときに、
「グールドだ!」と感じてしまったときに、聴いていたのは、所有するスピーカーシステムであり、
自分の部屋において、である。

これがもし、(その5)に書いたスピーカーシステムで、
味気ない奇妙な世界を感じさせる音で聴いていたら、
はたしてアデールの「フーガの技法」を聴いて、どう感じただろうか。

「グールド!」とは思わなかった、はずだ。
そればかりか、アデールの「フーガの技法」を素晴らしいとも思わなかった可能性、
──というよりも怖ろしさもある。

つまり、グールドのゴールドベルグ変奏曲を、アップライトピアノのように聴かせ、
グールドの不在をも意識させてしまうような音は、
それがどんなに情報量の多い音であったとしても、
「音楽の姿」を聴き手に、できるだけ正確に伝えようとする音ではない、と断言できる。

肉体を感じさせる音、とは、まずは、音の姿をありのまま伝えようとする音でなければならない。

Date: 3月 25th, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その37)

スピーカーシステムの特集号、アンプの特集号で、
それぞれスピーカーシステム、アンプがある数以上集められて、
複数の筆者による試聴記が掲載されることによって誌面で語られるのは、個々のオーディオ機器の「性能性」である。

ここで「機能性」が語られることはほとんどない。
これは試聴テストという企画の性格上、しかたのないことである。

それでも、いちどコントロールアンプの特集号で、
それぞれのコントロールアンプの機能(フィルター、トーンコントロール、ヘッドアンプなど)のテストを、
柳沢功力氏にやってもらったことがある。

とはいうものの、当時は「機能性、性能性、効能性」ということを考えたうえでの機能テストではなくて、
せっかくコントロールアンプについている機能だから、一度は全部試してみたいし、試してもらおう、という、
どちらかといえば興味本位からお願いしたわけだ。

インプットセレクターとボリュウムぐらいしか機能のついていないコントロールアンプだと楽だが、
トーンコントロールにターンオーバー周波数の切替えがついていたり、
ヘッドアンプも入力インピーダンス、ゲインの切替えがあったりしていくと、
意外に時間を必要とする試聴になっていく。
地味な割には、めんどうな試聴ということになる。

けれど、いまは、この「機能性」についてきちんと誌面で語っていくことは、
「性能性」と同じぐらいに扱っていくべきことだと思う。

Date: 3月 25th, 2011
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」(「いま」読んで……)

「人」という漢字について、よく云われることに、
互いが支え合っているから立てる、というのがある。

現実には2本だけでは立てない。
かろうじてバランスを保つポイントを見つけても、すぐに倒れてしまう。
2本で支え合っている、というのは、あくまでも紙の上に書かれたことでしかない。

「人」が現実においてふらつかずしっかりと立つには、
陰に隠れている3本目がある、ということだ。

この3本目が何であるのかは人によって違うことだろう。
音楽の人もいる。
音楽といっても、ジャズも人もいればクラシックの人もいて、
そのジャズの中でも……、クラシックの中でも……、と、さらに細かくなっていくはず。

「オーディオ彷徨」に「あの時、ロリンズは神だったのかもしれない」がある。
ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」のことだ。

岩崎先生にとって、「サキソフォン・コロッサス」が3本目だ、と今回読んで気づいた。

Date: 3月 24th, 2011
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その7)

振動板のピストニックモーションということでいえば、コンデンサー型スピーカーもより理想に近い。
ゴードン・ガウはXRT20の開発過程で、コンデンサー型によるトゥイーター・コラムを試した、とのこと。

コンデンサー型は基本的には平面振動板だから、そのままでは平面波が生じる。
XRT20のトゥイーター・コラムが目指したシリンドリカルウェーヴには、そのままではならない。
けれど、ビバリッジのSystem2SW-1は、これを実現している。

System2SW-1はステレオサウンド 50号に登場している。
XRT20は60号。ビバリッジのほうが先に出ている。
しかもSystem2SW-1の前の機種でもビバリッジはシリンドリカルウェーブを実現しているから、
ゴードン・ガウが、ビバリッジのこの手法について全く知らなかったということは、可能性はしては小さい。

シリンドリカルウェーブということにだけでみれば、ビバリッジの手法のほうが、
XRT20のソフトドーム型トゥイーターを多数使用するよりも、ずっとスマートだし、理想には近い。

けれどXRT20のトゥイーター・コラムはコンデンサー型の採用をあきらめている。

いくつかの理由は考えられる。
ウーファー、スコーカーがコーン型であるために、音色的なつながりでの整合性への不満なのか、
オリジナルを大事にするというアメリカ人としては、
他社のマネは、それがどんなに優れていてもやらない、ということなのか。
あとは、昔からその時代時代において、ハイパワーアンプを作り続けてきたマッキントッシュとしては、
コンデンサー型のトゥイーター・コラムでは最大音圧レベルでの不満が生じるのか。

なにが正しい答なのかはっきりしないが、
ゴードン・ガウが求めていたのは、理想的なシリンドリカルウェーブではなく、
結果としてシリンドリカルウェーブになってしまったような気がする。
それに、より理想的なピストニックモーションでもなかった、といえよう。

Date: 3月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」

昨夜ふと思い立ち、岩崎先生の「オーディオ彷徨」をEPUB(電子書籍)化し、公開しました。
内容は、 当然ですが、audio sharing内の岩崎先生のページで公開しているものと同じです。

今日(3月24日)は、岩崎先生の命日です。

Date: 3月 23rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その6)

その1)で、疾走することによって、風が興る、と書いた。

そのモーツァルトの音楽を再生するスピーカーも、また風を興すものだと思う。
スピーカーから流れてくる音楽によっても、その音質によっても、
風の性質が変化してくる。

風量の違いがある。すーっと吹いてくる隙間風もあれば、台風のようなひじょうにつよい風もある。
湿り気の違いもある。からからに乾いた風もあれば、湿り気のある風にも、じとっと湿り気のある風、
うるおいのある風がある。
温度感も違う。肌につき刺さる風もあれば、暖かくつつみ込んでくれる風もある。

そう思うと、オーディオこそ、エアーコンディショナーではないだろうか。
部屋に澱んでいる「なにか」を吹き飛ばしてくれるものではあるように思う。

そんなふうに捉えたとき、バックグラウンドミュージックに対しての考えも変ってくる。

Date: 3月 22nd, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その6)

その5)でスピーカーシステムを例えとしたが、
そのスピーカーシステムにもたいていのものには、ネットワークは存在する。

オーディオマニアにとってのネットワークは、スピーカーシステムのためのものであり、
それは信号を分割するものというイメージが強いはず。

スピーカーシステム内のものについて、ついネットワークと略して言ってしまうが、
正しくはデヴァイディングネットワーク(Dividing Network)、分割するネットワークである。
パワーアンプから送り込まれた信号を、ウーファーにはウーファーが受け持つ帯域だけを、
スコーカー、トゥイーターには、それぞれのユニットが受け持つ帯域だけを、
言いかえれば、必要な帯域以外は通過させないフィルターから構成されている。

不要な帯域をカットされたされた信号が、それぞれのスピーカーユニットに送り込まれ振動板が動き、音が出る。
3ウェイなら3つのスピーカーユニットから、4ウェイなら4つのスピーカーユニットから音が出る。
いうまでもなく多少クロスしている帯域はあるもののは、
ウーファーから出る音と、トゥイーターから出る音は違う。

出来の悪いスピーカーシステムなら、複数のユニットからの音がバラバラということもあるけれど、
まともなスピーカーシステムならば、きちんと鳴らされているスピーカーシステムであるならば、
そんなことを音楽を聴くときに意識することはない。

ということはデヴァイディングネットワークで分割された信号が、
どこかでまたひとつになっているから、ということになる。

オーディオの再生系をネットワークしてとらえるなら、分割したならばどこかで統合しなければならない。

どこで統合されるのか、は、スピーカーシステムと聴き手のあいだにある空間ということになり、
この空間こそ統合ネットワーク(Combining Network)ということになる。

Date: 3月 21st, 2011
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その1)

待ち遠しい」というタイトルで、
アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集Vol.8についてふれた。
輸入盤が入荷したその日に購入した。

待ち遠しかったCDだけに、帰宅後、すぐに聴いた。
待っている間に、聴き手の勝手な期待はふくらんでいく。
そのふくらんだ期待を、シフの演奏はまったく裏切るところがない。
なんと優秀な演奏だろう、と思って聴いていた。

聴いていて、ほかのベートーヴェンのアルバムとすこし違う気がしてきた。
それがなにかははっきりとそのときはわからなかったが、後日、ある記事を読んでいたら、
このVol.8だけスタジオ録音だということだった。

アンドラーシュ・シフのECMでの録音は、たしかすべてライヴでの録音だ。
もちろんベートーヴェンの最後の3曲のピアノ・ソナタもコンサートで演奏しているはずだし、
それを録音をしているはず。
にもかかわらず、あえてスタジオ録音で入れ直している。

このことを知る前に、実は感じていたことが、もうひとつある。
それを確認したくて、シフのベートーヴェンのあとに、
内田光子の演奏を聴き、グールドのモノーラル盤も聴いた。

ほかのピアニストの演奏も聴くつもりでいたが、このふたりの演奏を聴いてはっきりと気づいた。
シフのベートーヴェンの、それも最後の3曲には、「ないもの」があるということだ。
しかも、その「ないもの」があることによって、ややこしい話だが、ほかの演奏にはないものがある、といえる。

私は、いまのところベートーヴェンの、30番、31番、32番には、
シフの演奏には「ないもの」を求めている。

だからシフによるこの3曲のピアノ・ソナタは、私にとっては優秀な演奏で満足するところはありながらも、
その「ないもの」を意識することになる。

五味先生が、ポリーニのベートーヴェンのソナタを聴かれて、激怒されたのとはまったく違う。

こういうことを書きながらも、シフの演奏は優秀だ。
だが私の勝手な憶測にしかすぎないが、シフも、その「ないもの」を気づいていたのかもしれない。
そうでなければ、なぜ、あの3曲だけ、誰もいないスタジオで録音しなおしたのか。

Date: 3月 21st, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その4・補足)

この項の(その4)をすぐあとに、この補足を書くつもりでいたのに、
ころっと忘れてしまっていて、いまごろ思い出した。

(その4)で書いたように、ケイト・ブッシュはオマケで録音したものだった。
だから興味のあった女性ヴォーカリストから聴いていていって、
最後に、これも一応聴いてみよう、という、はじめて耳にする音楽に対しては失礼な態度だった。

写真で見るかぎり、ケイト・ブッシュは私にとって、ちょっとおかしな女の子だった。

なのにイントロが終ってケイト・ブッシュの歌声を聴いたとたんに、
強い衝撃を受けたときによくいわれるように、背筋に電流が走った。
こういう言い方がゆるされるなら、背筋が屹立した。

それはクラシックの名演奏を聴いたときの強い感動とはまた異質の衝動だった。

あの日から30年以上経つ。
いまだに、背筋の屹立による快感がどこかに残っているのだろう、
ケイト・ブッシュの歌から離れることができないでいる。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・朝沼予史宏氏のこと)

朝沼さんに感じていた役割と、
ステレオサウンド創刊当時からのオーディオ評論家の方々に感じていた役割とには、
私個人としては、微妙な差がある、と思っている。

誤解を招く書き方になるが、朝沼さんの役割には、ある種の演じている、と感じるところがあるからだ。
もちろん、瀬川先生ほか、オーディオ評論家の方たちにも、そういう演じている役割はあったと思う。
それでも、表立つことはそうはなかった。

その点において、朝沼さんは違う。
なぜ違うのか。
世代の違いがある。

役割を果してこられた方たちと朝沼さんとは、ひとまわり以上違う。
朝沼さんは、若手と呼ばれるグループにいた。
そのグループ内には、共通認識としての役目・役割がなかったのではなかろうか。
上の世代には、それがあった。
朝沼さんの世代には、それがなかった。
これが朝沼さんが、役割を演じていると感じることに関係している、と思う。

まず共通認識としての役目があり、そしてそれぞれの役割があるのだから。

話はそれるが、いまでも朝沼さんのことに関して菅野先生を誤解している人がいるのを、見聞きする。
菅野先生ご本人が語られていないことを私が語るわけにもいかないが、
なにひとつ事情を知らない人の誤解であることは、はっきりと書いておく。

2002年12月8日の未明に、朝沼さんは亡くなられている。
その日の午前中、私は菅野先生のお宅をうかがっていた。
そのときの菅野先生の表情を私はみている。
そして、菅野先生から、直接聞いていることがある。

だから言える、菅野先生は朝沼さんに期待されていた。
それゆえのことだった、と。

いつか詳しく書く日が来ると思うが、いまはこれ以上は書かない。