第4回公開対談のお知らせ
毎月第1水曜日に行っていますイルンゴ・オーディオの楠本さんの公開対談ですが、
4回目の来月はゴールデンウィークになるため、昨日来られた方から、
できればずらしてほしい、という要望がありましたので、1週間ずらして、5月11日(水曜日)に行います。
毎月第1水曜日に行っていますイルンゴ・オーディオの楠本さんの公開対談ですが、
4回目の来月はゴールデンウィークになるため、昨日来られた方から、
できればずらしてほしい、という要望がありましたので、1週間ずらして、5月11日(水曜日)に行います。
どうすれば、書き手と読み手のあいだに共通認識を築いていけるのか。
これはもう書き手が、とにかく書いて書いて、書き尽くすぐらい気持で書くことからしか始まっていかない。
新製品紹介でも、スピーカーやアンプのなどの試聴記だけでなく、
オーディオ、それに音楽に関する随筆、さらにできれば音楽、オーディオから離れた話題についても、
ときには書いていくことで、
読み手は、それらを読み重ねていくことで、ある特定の書き手についての印象が形成されていく。
その書き手がどういう音楽を好み、どういう音で、どういう環境で聴いているのか──、
こういう基本的な事柄ですら、いまの書き手の中にははっきりと読み手側に伝えていない人がいる。
書き手側は一度書いたから、と思いがちだが、読み手側は、必ずしも過去の記事にまで遡って読む人ばかりではない。
仮に過去の記事を読んだ人すべてが記憶しているわけでもない。
大事なことはくりかえし書いていく、しかない。
書いたからいってすべてが伝わるわけではないけれど、書かなければまったく伝わらない。
だけど……、という反論が返ってくるかもしれない。
随筆を書いていきたいけれど書く場所がない。
編集部から、そういう以来が来ない。
こんないいわけが通ったのは、ネットが普及する前まで。
いま、ブログならパソコンとネットに接続できる環境があれば、すぐにもつくれる。
すぐにでも書く場所を得られる。
しかも、この「書く場所」はページ数の制限がない。
書きたいことを書きたい分量で書ける。
なにも長く書けるだけがメリットではなく、たった1行でも、いま伝えたいと思ったことがあれば、
すぐにでも書いて公開できる。
オーディオ雑誌では、編集部から与えられたテーマと分量がある。長くすぎる文章は削られるし、
たった1行だけの文章も拒否される。
いまオーディオ評論家の肩書きで仕事をしている人のどれだけがブログを利用して、
読み手との共通認識を築いてくことに積極的な人がいるのか。
ここでも、こんな反論があろう。
われわれ(オーディオ評論家を名乗っている人たち)は、プロの書き手である。
だからお金にならない文章は書かない、と。
けれど黒田先生は、4343をAPM8にはされなかった。
ステレオサウンド 54号のちょうど2年後に出た62号で、またAPM8を聴かれている。
特集のテーマは「日本の音・日本のスピーカー その魅力を聴く」。
ここでは、パイオニアのS-F1も聴かれている。
APM8もS-F1も、そのころ日本のメーカーが積極的に開発をすすめていた平面振動板を採用、
そしてどちらも4ウェイ構成で、価格もS-F1が875,000円、APM8が1,000,000円と、そう大きな差はない。
このふたつのスピーカーシステムを、
黒田先生はAPM8をアントン・ウェーベルンに、S-F1をアルバン・ベルクに、
さらにAPM8をクラウディオ・アバドに、S-F1をカルロス・クライバーにたとえられている。
つまりAPM8のほうが響きがやや暗めでクール、それにスタティックなのに対して、
S-F1は少し明るく少し温かく、そしてアクティヴだということ。
ただこれらの表現は、あくまでもAPM8とS-F1を対比して、語られているものだということを忘れないでほしい。
1982年の時点で、黒田先生はS-F1に「ゆさぶられている」。
そしてステレオサウンド 63号につづいていく。
黒田先生は、APM8のことを試聴記に、
「化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか」と書かれ、
さらに「純白のキャンパスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる」と。
この「純白のキャンパス」、「素顔の美しさ」のところが、
ウィーン・フィル、ベルリン・フィルではなく、シカゴ交響楽団を指揮してみたいにかかってくる。
ウィーン・フィル、ベルリン・フィルが化粧しているといいたいわけではないけれど、
ウィーン・フィル、ベルリン・フィルには、ほかのオーケストラにはない色(独自の音色)がある。
21世紀のいまでは、そういう、ウィーン・フィルならではの音色、ベルリン・フィルならではの音色は、
少しずつ薄れてきつつあるようにも感じることもあるけれど、
APM8を黒田先生が聴かれたの1980年である。
シカゴ交響楽団の音楽監督はショルティになっていた。第2期黄金時代を迎えていた。
主席客演指揮者として、カルロ・マリア・ジュリーニ、クラウディオ・アバドが迎え入れられていた。
ショルティとジュリーニ、ふたりの性格はずいぶん違う(ように思う)。顔つきもそうだ。
ショルティとアバドについても同じことがいえる。
それにショルティとジュリーニは世代的にはほぼ同じだが、ショルティとアバドではふたまわり近く違う。
ジュリーニとアバドも、また違う。
にも関わらず、シカゴ交響楽団は、この3人の指揮によっていくつもの名演を残してきていることは、
実演に私は接したことがないけれど、録音だけからでもはっきりといえる。
シカゴ交響楽団の高い技量に裏打ちされた柔軟性、自在性の高さに加え、
伝統というバックボーンをもつヨーロッパのオーケストラは違う、
アメリカならではのオーケストラだから可能なことなのかもしれない。
それに最初の黄金期を築いたフリッツ・ライナーもショルティもハンガリー出身ということもあろう。
ここにシカゴ交響楽団の特色があるといえるし、
だからこそ黒田先生はAPM8をシカゴ交響楽団に例えられたのだと思う。
黒田先生は、ステレオサウンド 54号の試聴で聴かれた45機種のスピーカーシステムのなかで、
ソニー/エスプリのAPM8を、
そのときお使いだったJBLの4343を「出してもいいかな?」まで言われるくらいまで気に入られている。
ちなみにこのときの試聴メンバーだった菅野先生は、KEFの303を挙げられている。
客観的にはJBLの4343Bだけれども、すでにJBLの3ウェイ・システムがあるため、
4343を入れるのは大きくてたいへんだ、ということ、
それに編集部からの質問が「自宅に持ち帰るとすれば」ということもあって、大きさと値段が手頃な303を、
「この音ならば、いますぐお金を払って持ち帰ってもいいくらい」とまで言われている。
瀬川先生は、10点をつけたスピーカーシステム、
KEFの303、105II、JBLのL150、4343Bのうち、KEFの2機種はすでに持っておられる、
JBLは4343を使われているということで、9点のスピーカーシステムのアルテックの6041を、
「いままで私の家にはないタイプの音のスピーカー」ということであげられている。
黒田先生が、4343を出してもいいかな、とまで思わせたAPM8については、
瀬川先生は、価格が半値だったら(つまりペアで100万円)、文句なく10点をつけし、
さらに、「あらゆる変化にこれほど正確に鋭敏に反応するスピーカーはない」、と。
菅野先生も、半値なら10点をつけ、最も印象づけられたスピーカー、といわれている。
これらの発言、それに3人のAPM8の試聴記を読めば、
このスピーカーシステムのもつ高性能ぶりが伝わってくる。
その高性能は、黒田先生のオーケストラの例えでいえば、技量にあたるし、
ウィーン・フィルもベルリン・フィルも技量は高い。
黒田先生が指揮者となって振ってみたいオーケストラとしてあげられたシカゴ交響楽団と、
ウィーン、ベリルンのふたつのオーケストラのどれが最高の技量などということは、
誰にもいえない高みにある。
なのに黒田先生は、シカゴ交響楽団をあげられ、APM8をこのオーケストラにたとえられている。
抽象的な音を、具象的な言葉で表現することの難しさ、
しかもそれをまったく面識のない人に誌面をつうじて文字だけで伝えていくことの難しさは、
いまさら、ここで私がいうまでもなく、書き手も読み手も感じていること。
同じ表現を使っていても、書き手によって、そこに含まれている意味あいは、
まったく同じこともあれば、微妙に違うこともあるし、ときには大きく違うこともある。
たとえば「乾いた音」。
ずいぶん以前から使われてきている、この音の表現でも、果してすべて同じ意味あいで使われているかというと、
決してそうではない。
ときには、ある人は、いい音の表現として使い、またあるときには、別の人は、ややネガティヴな表現としても使う。
だから読み手も、この人が「乾いた音」という表現を使うときには、こういう意味あい、
あの人の場合には、また違う意味あい、ということを知っていないと、
ただ、自分の感覚だけで「乾いた音」──、
この簡単な表現ですらも、誤解が生じてしまう。
結局、書き手と読み手のあいだに、共通認識が生れていなければ、
言葉で音を表現し、それを伝えることは、まず無理でいえる。
この「共通認識」を、どうすればつくっていけるのか。
いまでも、レコード(いうまでもないけれどSP、LP、CD、SACDなどを含めたパッケージメディアのこと)を、
残念なことにナマの演奏会の代用品としてとらえている人たちがいる。
演奏家の中にも、そういう人たちがいるかもしれない。
けれど、ショルティは、レコードを代用品とはとらえていなかった、と、私は思っている。
コンサートをドロップアウトこそしなかったものの、
グレン・グールドに近いところにいた指揮者ではないか、とも思っている。
録音に対して積極的な指揮者といえば、まずカラヤンが浮ぶ。
ショルティもそのひとりだ。
でも、このふたりのレコーディング、レコードに対する考え方は、微妙なところで違っていると感じるし、
どちらかといえばグールドに近い感じるのは、ショルティではないだろうか。
私が感じている、レコードに対する「カラヤンらしさ」がもっとも色濃いのは、
やはり1970年代のドイツ・グラモフォンへの録音であって、
そのころのカラヤンの録音と、録音のフィールドだけで活躍していたグールドの録音と、
その取り組み方には、共通するところよりも、まったく違う世界のように感じてもいた。
指揮者とピアニストという違いからくるものすはかりではない、と思っていたけれど、
80年代前半にあれこれ聴き比べていたときは、はっきりと、その違いをつかむことができなかった。
カラヤンとグールドの、録音物に対する考え方の違いは、レーザーディスクの登場によってはっきりしてきた。
「天性の童心」をもつマーラーの裡で鳴っていた「音楽」、それに「音」とはどういうものだったのか、
聴き手は、指揮者の解釈を俟つしかない。
交響曲第6番の大太鼓の強打音に不満をもち、お手製の楽器をもちこんだマーラー。
しかも一度で懲りずに、次の演奏会場にまで運んでいるマーラー。
そのマーラーが、貪欲に求めていた、彼の音楽のために必要な「音」とは、
果して、かれが 生きていたころの現実の楽器で、実現できていたのか。
従来の大太鼓のほうが、ずっとまともな音をだしたにも関わらず、
マーラーはあきらめていない。
そんなマーラーが、交響曲第2番の冒頭で求めていたのは、
もしかするとショルティがレコードにおいてのみ実現できた音だったかもしれない。
つまり、言いかえればマーラーが貪欲に求めていた「音」は、
ナマの演奏会では実現できずに、録音という手段を介することで実現できた、ということになる。
誤解してほしくないので強調しておきたいことがある。
SL600にかぶせた吸音材はウール100%の天然素材である、ということだ。
じかに手で触っても不快なところはなく、むしろ心地よい感じのするもので、
ぎゅっと力をくわえても、ガサッ、とか、ゴソッ、といった音はしないものだ。
吸音材ということでグラスウールを想像する人もいるだろうが、
天然素材のものとグラスウールとでは、吸音材とひとくくりにはできないところもある。
グラスウールを素手で、喜んでふれる人はいないだろう。
それにグラスウールにぎゅっと力を加えると、ガラス繊維のこすれ合う音が聞こえる。
吸音材といっても、グラスウールをSL600の音にかぶせてしまっては、
私が書いていることとは別の結果が得られることになる。
ハニカム・エンクロージュアの問題点は、ハニカム構造に起因していることであって、
それを抑えるには、どうしたらいいのか考えてみたけれど、
それを試すには、ハニカム素材を造る段階で手を加えなければならない。
できあがったハニカム素材には手を加えられない。
だから試すことはできなかった。もし製造段階に関われたとしても、
私の考えていることを実際にやろうとすると、調達する材料のコストはそれほどかからないものの、
手間は大幅にかかることになる。
その効果は、ウールの吸音材をかぶさせときの音から想像はできるものの、
いちどは聴いてみたかった、だけど聴くことのかなわない音のひとつである。
それでもネットワークをいじり、パワーアンプをThe Goldにして、
その他にもいろいろとこまかい調整をしていくことで、いまふりかえってみると、
意識していたわけではないけれど、いまはっきりと意識して求めている方向へともっていっていた。
いっておくが、吸音材をSL600にかぶせた状態で聴いていたわけではない。
私は、ときに既製品を手を加えることもある。だがひとつ守っている、というか、自分で決めていることは、
絶対に外観からは手を加えているとはわからないようにしておくことだ。
手を加える前の下準備となる実験では、SL600に吸音材をかぶせたりしてみる。
スチューダーのCDプレーヤーのA727に手を加えたときも、実験用として、
フィリップスのピックアップ・メカニズムとD/Aコンバーターを搭載した、
つまりほとんど同じ構成のCDプレーヤーを購入して、徹底的に加えて、その音の変化を聴いてみた。
最終的にはトレイも外し、ディスプレイも消した。
そこまでして得たものを、できるかぎりA727に応用した。もちろん外観はいっさい変えずに、である。
外観まで変えてしまうことに対して、批判的なことをあれこれいいたいのではなくて、
それはその人が、それぞれ判断すればいいことであって、
私はただ、外からみただけでは、手を加えているのかどうかすら、わからないようにしたいだけである。
この一条の光を、ときとして神と呼ばれるものとして、感じているのではないか。
「あの時、ロリンズは神だったのかもしれない」が頭の中でリフレインする。
実はSL600は内部に手を加えて鳴らしていた。その他にもいくつか試したことがある。
そのひとつが、ウール100%の吸音材(ぎゅっと密度の高いものではなく、白くふわっとしたもの)を、
SL600に、かつらのようにかぶせたことがある。
SL600の天板、側面を、このウールの吸音材で囲うようにして、音を聴いてみると、
かぶせる前の音、そして音場感の差の大きさが、予想以上に大きく驚いたことがある。
これは自分のSL600でも試したし、ステレオサウンドの試聴室でも試してみた。
SL600のエンクロージュアは、一般的な材質である木ではなく、ハニカム素材を使っている。
軽くて剛性の高いハニカム素材は、スピーカーユニットからの振動、エンクロージュア内部の音圧による振動を、
エンクロージュアそのものにできるだけため込まず、つまりエネルギー蓄積効果の少なさによって、
スピーカーユニットからの音とエンクロージュアの共振とのあいだの時間差をできるだけ排除するものだった。
セレッションによれば、木製のエンクロージュアで剛性を高めるために板厚を厚くすればするほど、
エネルギー蓄積効果が高くなり、その分だけエンクロージュアから輻射される音の時間差が生じ、
音だけでなく音場感を乱していく、というふうに記憶している。
だから軽くて高剛性のハニカム素材を採用したのがSL600で、その後SL600Si、SL700が登場し、
低域拡充をはかったSystem6000、というふうに、セレッションとしても意欲的にとりくんでいたし、
それだけの自信もあったのだろう。
たしかにエネルギーの蓄積効果は少ない、とは思う。
でも、そのままではエンクロージュアの素材として理想的かというと、
そうでもないところが自分で使っていると、少しずつ耳が気づいてくる。
2月2日に1回目を行ないました、イルンゴ・オーディオの主宰者、楠本さんとの公開対談の3回目を、
4月6日(水曜日)に行ないます。
時間は夜7時から、です。終了予定時間は9時すぎになると思います。
1回目は9時30分終了でした。
場所は前回と同じ、四谷三丁目にある喫茶茶会記のスペースを借りて行ないますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
予約は、とくに必要ありません。
3本目こそが、一条の光だ、と思う。
シーメンスのコアキシャルの平面バッフル(190×100cm)のあとに選択したのは、
セレッションのSL600だった。
SL600にして、目の前にやっと壁があらわれた。それまでは平面バッフルが壁で、
その後にあるほんとうの壁は、ほとんど聴取位置からは見えていなかった。
パワーアンプも換えた。
SUMOのThe Goldを手に入れたのは、SL600を使っているとき。
The Goldで鳴らすSL600に、なにか不満があったわけではないけれど、
取材でたまたま聴いたQUADのESLの音に、ころっとまいってしまった。
狭い部屋にESlは、ちょっと無理だろう、と思い、SL600のまま行こう、という気持と、
どうしてもESLの音の世界は自分のものにしたい、という気持。
1ヵ月ぐらい迷って、ESLを手に入れる。
このときは、まだ気がついていなかったけれど、
私にとってロジャースのPM510とQUADのESL、それにジャーマン・フィジックスのDDDユニット、
そしてThe Goldには、共通するものがある。
このことに気がつくのは、ずっとあとのこと。
このときは、音色的な魅力に惹かれてESLを選んだ、と思っていたけれど、
じつはちがうところにあった。