Date: 4月 15th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その9)

実際に市場に出廻ったModel 7に使われていたのは Black Beauty だから、
Model 7を元に戻すためには Black Beauty でなければならない、とするか、
それとも設計者が本当に使いたかったのはグッドールのコンデンサーなのだから、
その意図通りにグッドオール(のちのTRW、さらに社名がかわり現在はASC)を使うのか、
「オリジナル」をどう捉えるかによって、選択が変ってくる。

Model 7を、発表当時に、新品(オリジナル)の音を聴いていれば、
Black Beauty にこだわる気持が私にも生れてくるかもしれない。
それほどに、当時Model 7の音は衝撃的だった、ときいている。
けれど、1963年生れの私が最初にModel 7の音を聴くことができたのは、1980年代の中頃。
すでに製造中止になって20年以上が経過していた。

だから、もし私がModel 7を使うことになったら、コンデンサーは Black Beauty にはしない。
またダメになることがわかっているし、シドニー・スミスの頭の中にある「オリジナル」のほうを尊重したいから、
グッドール(現ASC)に置き換える。

Date: 4月 15th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その8)

マランツの管球式コントロールアンプModel 7は、最初ソウル・B・マランツの設計だと伝えられていたが、
ほんとうのところは、Model 2、5、8、9などの一連のパワーアンプを設計していたシドニー・スミスによるもの。

そのシドニー・スミスが、1990年代に台数限定でModel 7のメンテナンスを行っている、ときいたことがある。
当然劣化した部品を外して交換するわけだが、
Model 7に使われていたコンデンサーのBlack Beauty はすでに製造中止。
仮に未使用の新品の Black Beauty が、
広いアメリカのことだから、丹念に探していけばどこかで見つかるかもしれないけれど、
シドニー・スミスは、Black Beauty ではなく、TRW社のコンデンサーに交換していた、ときいた。
このことは、ラジオ技術誌で、石塚氏も同じことを書かれていたと記憶している。

シドニー・スミスが、Model 7に使いたかったコンデンサーは、実は Black Beauty ではなくて、
Goodall(グッドール)製のもので、それの現代版がTRWということらしい。

マランツModel 7の音は、Black Beauty でなければならない、という人が少なからずいるのは知っている。
けれど、Black Beauty は信頼性が低い。特に日本のような高温多湿の環境では、モールドが割れてしまい、
湿気が内部に入り込んでしまう。これでは初期特性はまったく維持できない。

アメリカ国内で、環境のいいところで保存されていた Black Beauty を手に入れることができたとしても、
それに交換したとしても、日本で使っているかぎり、遅かれ早かれ、Black Beauty は確実に劣化する。

もちろん24時間365日、温度も湿度も一定に管理した部屋に置いておければ、
劣化の心配もそれほどしなくてもすむだろう。

そういえば、五味先生が、「いい音いい音楽」の中に、次のようなことを書かれている。
     *
彼を訪問して参考になったのは、アンプ内のコンデンサーが経年による容量変化をきたし、音の劣化する事実を端的に見せられたことである。カリフォルニアは日本と違い、ほとんど雨は降らない。したがって湿気によるトラブルはないのだが、それでも、何年も使いこむうち、容量が変わり、その分、確実に音質はわるくなっていく。感心したのは、彼がわざわざ日本へ発送された米国製の有名なアンプ(それも昨今〝幻のアンプ〟といわれている)で、永年、日本で使用されたものを二台、取り寄せ、一台は旧のまま、一台はコンデンサーを全部新品に取り替えたのを比較試聴させてくれた。聴きくらべてあまりな音の違いに私は絶句したのだ。とても同一メーカーのアンプとは思えなかった。
 私は忠告する。〝幻のアンプ〟をいまでも使っている愛好家は日本にかなりいると思うが、それは鳴っているだけで、工場を出荷当時の音質とはずいぶん劣下したものと考えるべきであり、ぜひコンデンサーを新品と取り替えてごらんなさいと。忘れていたそれこそ名アンプの美音が、甦るでしょう、と。
     *
この〝幻のアンプ〟は、たぶんマランツの7か、マッキントッシュのC22のどちらかだろう。
どちらにしても、コンデンサーは Black Beauty だ。

Date: 4月 14th, 2011
Cate: 選択

オーディオ機器との出逢い(その4)

出逢いがあれば、必ず別離がある、とはずっとずっと以前から云われていること。

出逢うべくして出逢ったオーディオ機器との別離が、いつかきっとくる。
大切なモノを失うことはつらい。

ときに、その別離が、大切な「こと」を見失っていたのに気づかせてくれることもある。

Date: 4月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その2・続×二十 補足)

A-Z1、S-Z1がいつまにか消えてしまっているのに気がついて、
実のところエソテリック自身も、この2つのモデルに関しては失敗作だと考えているんだな、
と、実は勝手に思っていた。

ところがA-Z1a、S-Z1aとなって復活している。
このことが、A100のデザインに対して感じていた疑問を、確信に変えた。

なぜ、これらを復活させるのか、
もしかするとエソテリックという会社は、A-Z1、S-Z1は出すのが早すぎた。
そのせいでユーザーに受け入れられなかった。
あれから時間も経ち、世の中も変り、A-Z1、S-Z1のデザインも受け入れられるようになった……、
そんなふうにでも考えているのだろうか。

そうとでも考えないかぎり、A-Z1、S-Z1を復活させる意味が理解できない。
これを堂々と復活させる感覚は、あきらかにおかしい。

Date: 4月 13th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その43)

ステレオ再生だから、スピーカーシステム2本。
聴取位置からみて、それぞれのスピーカーシステムの内側の側面が見えるように振るのと、
外側の側面が見えるように振っていくのとでは、エンクロージュアの響きの加味のされ方は当然違う。

どちらがいいか、どちらが好ましいのかは、
使用するスピーカーシステムによっても、聴く人によっても異ってくるけれど、
スピーカーの振り角度を調整するときには、この点にも注目して聴いてもらいたい。

セレッションのSL600と、この点、どうかというと、私個人としては、
聴取位置からはエンクロージュアの側面が見えないようにしたい、と感じていた。

良質の木のエンクロージュアの響きと、SL600のハニカム・エンクロージュアの鳴き(響きとはいえない)は、
どちらがいいとか悪いとかではなく、響きと鳴きの違いがある。
もちろん木のエンクロージュアの全てが、響きではなくて、鳴き、といいたいものを確かにある。
その鳴きとは、素材、構造が違うから当然とはいえ、SL600の鳴きは、また異質である。
この鳴きは、積極的に活かしていくことは、あの頃は私にはできなかった。
おそらく、いま使ったとしても、この鳴きは極力耳につかないようにセッティングしていくと思う。

勘違いしないでいただきたい。
なにもSL600のハニカム・エンクロージュアが本質的な欠陥をもっているといいたいのではなくて、
よくできた良質の木のエンクロージュアとは、捉え方を変える必要がある、といいたいのと、
このことが、私が求めている、このカテゴリーのテーマでもある「朦朧体」ではない、ということだ。

Date: 4月 12th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その42)

スピーカーのセッティングの基本は、
ふたつのスピーカー、聴取ポイントをそれぞれ頂点とした正三角形を形成すること。

部屋の状況、スピーカーシステムによっては、厳密な正三角形が必ずしもベストではないものの、
それでもスピーカーシステムのセッティングの基本であり、大原則は正三角形である。

この正三角形がなぜ大事なのかは、自分で録音をしてみるとただちに理解できることである。

最初は正三角形になるようにスピーカーシステムを置く。
このときスピーカーシステムの振りも、聴き手に向うようにする。
こうすればスピーカーシステムのエンクロージュアの左右の面は聴取位置からはほとんど見えなくなる。

ここからさきは実際に音を聴いて、少しずつ置き位置、スピーカーシステムの振りを変化させていくわけだが、
スピーカーの振りを変えていくことで気がつくのは、エンクロージュアの側面からの響きと、
スピーカーユニットからでてくる音との比率(溶け合い方)だ。

奥行きの短いスピーカーシステムよりも、奥行きの長い(つまり側面の面積の広い)方が、
このことはよりはっきりと聴きとれる傾向がある。

最初はスピーカーシステムの角度を振らずに、聴取位置を左右どちらかに大きくずらしていく。
そうすれば左右のスピーカーシステムから等距離にある本来の聴取位置ではほとんど見えなかった側面が、
すこしずつ見えてくる。つまりエンクロージュア側面から輻射される音の比率が高くなってくる。

響きのいいエンクロージュアならば、この側面からの輻射が心地よい響きを加味していることに気がつくはずだ。

Date: 4月 12th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その7)

次に入荷してくるものが、そのとき聴いたモノとほとんど同じである確率は、
当時よりもいまのほうが圧倒的に高くなっている、と思う。

製造されるモノである以上、これが当然のことなのだけれども、
次に入荷してくるものが、いま聴いているモノと同じである確率が低かった当時は、
オーディオ機器との出逢い、という意味においては、
いまよりも、ずっとそのことについて考えさせてくれたようにも思う。

Date: 4月 11th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その6)

国産のオーディオ機器の常識は、海外のオーディオ機器にはあてはまらないことがいくつかある。
そのひとつが、製造における均一性だ。

国産のオーディオ機器であれば、型番が同じであれば、製造ロットが違っていても、
厳密に聴き比べればわずかなバラツキによる音の差までは完全になくせないまでも、
基本的には同じ音がする。
型番が同じであれば、使用パーツにも違いはない。

こういう製造のレベルの高さは、日本製の良さである。

そういう日本製(オーディオ機器に限らず)にかこまれて暮らしているわれわれ日本人は、
型番が変らなければ、中身は同じである、とつい思ってしまう。

でも海外製品(これもオーディオ機器に限らず)、手もとにそのパーツがあったから、という、
日本人からすると理解に苦しむ理由で、ときどき違うパーツが使われていることがある。

日本人の感覚からすると、いいかげんともいえるし、おおらかともいえる、この性格は、
マークレビンソンのアンプに関してもいえる(いまのマークレビンソンに関してはわからないが)。

ロットが変ったからパーツが変った、というような違いではない違いが、実際にある。
それはマランツの真空管アンプに関してもいえることだし、
なにもマークレビンソン、マランツだけでなく、海外のオーディオ機器に関しては、かなりあてはまることが多い。

だから井上先生は、気に入ったら、目の前にあるそのものを買え、といわれたわけだ。
次に入荷する同じ型番の製品が、いま目の前にあるモノと同じ音がする保証はどこにもないからだ。

Date: 4月 11th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その5)

マランツのModel 7、マークレビンソンのLNP2を複数台所有されている方がいる。
惚れ込んだモノだけに、その中から最良の一台を見つけ出すためでもあり、
シリアルナンバーと中身のチェックして、変遷の資料づくりをされてたり。

マランツの7もシリアルナンバーによって、使用パーツに変化がある。
LNP2は、7以上に使用パーツの変化は大きい。

以前は自分で購入して中身を調べるか、
あとはオーディオ雑誌に内部写真が載っていたら、それを参考にするぐらいしか手はなかったけれども、
いまはインターネットのおかげで、それにネットオークションのおかげで、
シリアルナンバーと内部の写真を知ることができる。
得られる情報量はインターネット以前とは比較にならぬほど多くなっている。

情報量が多くなればなるほど、資料の精度は増していく、はずだが、
海外製品に関しては、必ずしも情報量と資料の精度の比例しない、というか、
矛盾みたいなものが浮び上ってくるはずだ。

極度な神経質なマーク・レヴィンソンが主宰していた会社の製品だから、
たしかに使用パーツの選択にはおそろしく気が使われている。
その一方で、マークレビンソンもマランツも海外メーカーであることを忘れてはならない。

井上先生は、よく「海外製品を買う時は、聴いて、いい音だと思ったら、そのものを買うこと」と言われた。
アンプでもスピーカーでも、その音が気に入って「ほしい!」と思ったなら、
たとえその製品に傷があっても、それを買うこと。
マニアの心理としては、傷のない新品を欲しい。
高価なモノになればなるほど、傷ひとつないモノを手もとに置きたい。

けれど海外製品は、同じ型番のモノでも、
ひとつとして同じ音を出さない、と思っていた方がいい、ということだった。

このことを井上先生から聞かされたのは1980年代だったから、
いまはそういう状況ではなくなっているかもしれない。
でも、少なくとも当時は、このことは否定できない事実だった。

Date: 4月 10th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その10)

読み解くという行為は、読み手側に、その書き手との共通認識があってこそできることであり、
これをおもしろいと思うのか、面倒臭いと思うのか、は人によって違う。

とにかく時間を必要とする行為であるだけに、辛抱の足りない読み手は、
曖昧さを拒否し、わかりやすい表現をもとめる。

だが抽象的な音の表現にわかりやすい表現はあるのか。
しかも共通認識なしに、はっきりと伝えられる表現はあるのか。

少なくとも音色に関する表現では、まず無理だろう。
共通認識があるように思えている言葉でも、意外にも人によって使い方はまちまちであることは、
あるていど、音の表現について集中的に読んできた人なら理解されているはず。

このことは、(その6)に書いた「承認」がえやすい音、「わかりやすい」音と関係してくる。

Date: 4月 10th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その9)

編集部から与えられたテーマと分量の制約の中に、
読み手との間に共通認識を築いていくことにつながる文章を、
そこに折り込んでいけるのが、プロの書き手のはず。

だが、オーディオ雑誌に書いている人たち(以前にくらべると数は増えている)のどれだけが、
プロの書き手なんだろうか。

もちろん共通認識に関しては、書き手側だけの問題ではない。
書き手側がどんなに留意して書いていたとしても、読み手側を読みとってくれなければならない。

しかも日本語は、曖昧なところがある。
この、曖昧さは必ずしも悪い面ばかりでなく、ときには抽象的な音を書き表わすときには、
あえて、この「曖昧さ」を利用することで、いわば言葉のレトリックによって成り立つこともある。
このへんのことは、いずれきちんと書きたいと思っているが、日本におけるオーディオ評論の面白さ、独自性は、
日本語のもつ曖昧なところと結びついていることは確かだ。

だからこそ、書き手と読み手とのあいだに共通認識が、
他の言語で書かれた音の表現よりも必要とされるようにも思える。

英語にくわしいわけではないが、一般的に、日本語よりも曖昧なところは少なく、はっきりしているといわれる。
そんな言語で語られる音の表現と、日本語で語られるものとでは、表現の仕方そのものに違いがあって当然だし、
日本語での音の表現においても、書き手と読み手とのあいだの共通認識が稀薄になっていくことで、
より英語的な音の表現──いいかえればいっさいの曖昧さを拒否した表現を求める層が出てきたのかもしれない。

Date: 4月 10th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その4)

JBLのスピーカーユニットのターミナルは、会社設立当時はどうだったのだろうか。

1946年の最初の製品として登場したD101は、それほど大きくない写真をみるかぎり、
アルテックの以前のユニット同じように、指でツマミを回して締めつけていくタイプだ。

このD101というスピーカーユニットは、写真をご覧になった方はお気づきのように、
アルテックのウーファー515のセンターキャップをアルミ製に、
ボイスコイルを銅線からより軽量のアルミニウムに交換するなどして、
フルレンジとして設計し直したユニットである。
コーン紙の頂角も、D130以降浅くなっているのに対して、
アルテックの515同様、深い仕様になっている。
写真ではこまかいところまではっきりしないが、
おそらくターミナルも、アルテックとほぼ同じものだったかもしれない。

D101を発表したときの会社名は、JBLではなく、正確にはLANSING SOUNDだった。
会社名に「ランシング」とはいっていること、それに515をベースにしたと思われるD101が、
アルテックの神経を逆撫でしたのか、アルテック側からの要請(クレーム)により会社名を変更している。

そして、1948年に発表したD130は、D101と同じ15インチ口径のフルレンジユニットでありながら、
外観も、細部も大きく変っている。
いまだ確認できてないが、JBLのスピーカーユニットが逆相になったのは、このD130からだと私は思っている。

ターミナルも、この時点でJBLはアルテックよりもはやくバネ式のものを採用したようだ。

Date: 4月 9th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その3)

もちろん604-8G以降のバネ式のターミナルをオリジナルとして、
いっさい手を加えずにそのままで使うというのも、ひとつのやり方である。

アルテックの604シリーズや、
JBLのウーファー、フルレンジユニットでも、D130、150-4Cの流れを受けつぐユニット、
それにコンプレッションドライバーは、能率がかなり高い。

つまりこの手のスピーカーユニットは、小出力でも十分すぎる音圧を得られる。
最大音圧をえるのに必要なパワーはごくわずか。
ということは、オームの法則で、そのときに流れる電流はわかる。
それほど高くない値だから、スピーカーケーブルもそれほど太くある必要はない、
この程度のターミナルで十分という合理的な考え方も設計の段階であったのかもしれない。

ドイツの高能率スピーカー、シーメンスのオイロダインもスピーカー・ターミナルは、
そんな感じのする、小さなものである。
あれだけウーファー、ドライバーには贅を尽くしていても、スピーカー・ターミナルは、
ここに接続できる太さのスピーカーケーブルを使えば十分である、と主張しているようにも思える。

おまえは、もしオイロダインを手に入れてもスピーカー・ターミナルをいじるのか、と問われれば、
いじらない、と答える。

604-8Gのバネ式のスピーカー・ターミナルで私が不満に感じているのは、
接続できるスピーカーケーブルの太さに制限があることではなくて、
あの構造に起因する音の劣化の大きさだからだ。

あのターミナルがどれだけ音を変化(劣化)させるかは、
使わなくなったスピーカーケーブルを途中で切って、
このターミナルを介してつなげて一本のケーブルにして音を聴いてみれば、すぐにわかることだ。

Date: 4月 8th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その2)

正直、私は、JBLやアルテックのスピーカーユニットのターミナルをその程度にしか思っていない。
これをありがたがる気持はかけらもない。

オリジナル至上主義者は、このターミナルを絶対のものとしてありがたがっている。
このターミナルも、JBLの音、アルテックの音をつくっている一要素であるのだから、
それを使い手側で勝手に変えるのはまかりならん、というふうになる。

そんなことを言う人にきいてみたいことがある。

アルテックの604-8Gのスピーカーターミナルはバネ式だ。
私は、これを変える予定でいる。
その理由のひとつとして、オリジナル、ということを考えて、である。

604-8Gにとってのオリジナルとは、いったい何なのか。
604-8Gは、型番の末尾のアルファベットが示すように、何度かの改良が施されている。
もっとも人によっては改変であって、それは必ずしも改良ではない、ということになるけれど、
そのことはひとまず措いておく。

604シリーズは、最初の604、次に604B、604C、604D、604E、604-8G(この後もつづく)と変遷している。
604シリーズのスピーカーターミナルをみていくと、バネ式になったのは604-8Gからで、
それ以前のモデルはすべて、一般的な金属製のターミナルで、指で先端部分をまわしてしめていくタイプで、
バネ式のものよりも、スピーカーケーブルも、ずっと太くてもすんなり使える。

「オリジナル」は最初の604とする考えならば、
スピーカーターミナルはバネ式にこだわる理由は、私にとってはなくなってしまう。

Date: 4月 8th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その1)

何度か書いているからおわかりのように、私は手持ちのオーディオ機器にわりと手を加える方である。

「完成品に手を加えるぐらいなら、一から自作すべき」だという声は、昔からある。
これを否定する気はないし、真に完成品と感じるモノであれば、手を加えたりはしない。
それに手を加えるのが好きなわけではなく、できることならそのまま使っていきたい、とは思っている。
けれど、実際には、「完成品」と呼べるモノが、いったい過去を含めてどれだけあったのか、と反論したくなる。

それでも「オリジナルは尊重すべき」という声がある。
この「オリジナル」とは、いったい何を指すのか。
原音再生における「原音」と同じくらい、はっきりしているようであって、じつのところ曖昧でもある。

ステレオサウンド 60号の「プロが明かす音づくりの秘訣」の1回目に菅野先生が登場されている。
この記事をご覧になった方はご存知のように、菅野先生はJBLの075に手を加えられている。

まずホーンは砲金の削り出しに交換されていて、ダイアフラムは075用のではなく2405用にされている。
さらにバネ式のスピーカーターミナルを嫌って、バリアー・ターミナルとなっている。

JBLのスピーカーユニットもそうだが、アルテックも、バネ式のスピーカーターミナルを使っている。
ユニットの、実にしっかりした造りからすると、この部分は実にお粗末、というか、貧弱に感じられる。
スピーカーケーブルも、細いタイプのものだけ、となる。

それでも音質的に劣化の少ないつくりであればいいのだが、
バラしてみれば、どうみても劣化の度合は大きいとしか思えない。

高性能のスピーカーユニットであればあるほど、信号を受ける端子の音に対する影響には敏感であるはずなのに、
この程度のつくりである。

このタイプのターミナルはスピーカーケーブルをバネの力でくわえ込む。
ネジ式であれば、振動源であるスピーカーユニットについているわけで、
長い間の使用において、ネジがゆるんでしまうことが考えられる。
その点、バネ式であれば、まずゆるむことはない。
おそらく、このバネ式のターミナルが使われているのは、こんな理由からではないだろうか。