ショルティの「指環」(その15)
いまでも、レコード(いうまでもないけれどSP、LP、CD、SACDなどを含めたパッケージメディアのこと)を、
残念なことにナマの演奏会の代用品としてとらえている人たちがいる。
演奏家の中にも、そういう人たちがいるかもしれない。
けれど、ショルティは、レコードを代用品とはとらえていなかった、と、私は思っている。
コンサートをドロップアウトこそしなかったものの、
グレン・グールドに近いところにいた指揮者ではないか、とも思っている。
録音に対して積極的な指揮者といえば、まずカラヤンが浮ぶ。
ショルティもそのひとりだ。
でも、このふたりのレコーディング、レコードに対する考え方は、微妙なところで違っていると感じるし、
どちらかといえばグールドに近い感じるのは、ショルティではないだろうか。
私が感じている、レコードに対する「カラヤンらしさ」がもっとも色濃いのは、
やはり1970年代のドイツ・グラモフォンへの録音であって、
そのころのカラヤンの録音と、録音のフィールドだけで活躍していたグールドの録音と、
その取り組み方には、共通するところよりも、まったく違う世界のように感じてもいた。
指揮者とピアニストという違いからくるものすはかりではない、と思っていたけれど、
80年代前半にあれこれ聴き比べていたときは、はっきりと、その違いをつかむことができなかった。
カラヤンとグールドの、録音物に対する考え方の違いは、レーザーディスクの登場によってはっきりしてきた。