Date: 3月 20th, 2011
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その1)

めまぐるしい変化のなかに生きている、とわれわれは思っていた。
そこに、とてつもなく大きな変化がおきた。想像も出来ないほどの大きさだった。

そういう変化のあとで(しかもめまぐるしい変化も続いていてるなかで)愛聴盤を、
これまでと同じに聴けるのだろうか。
いままで気がつかなかった意味に気がつくこともあるだろう。違う意味に受けとれる音楽もあるかもしれない。

それが音楽だと思う。

一方で、はじめて聴いたときの同じに聴こえてくるレコードも、きっとある。
変らず、そこに音楽が或るレコードもある。
これも音楽だと思う。

いうまでもないことだけど、愛聴盤自体はなんら変っていない。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(朝沼予史宏氏のこと)

オーディオ雑誌(ジャーナリズム)に「役目」、それぞれのオーディオ雑誌に「役割」が本来あるべきなのと同じに、
そこに書く人たちにも、当然「役目」、「役割」がある。

ステレオサウンドが幸運だったのは、五味先生を筆頭に、
岡俊雄、井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三の各氏みな、
「役目」に対する共通認識が、なんらかの形であったこと。
そしてそれぞれの方たちが、それぞれの「役割」を果してこられていたこと。

だから、ステレオサウンドをおこした原田勲氏には、編集者は黒子、という考えがあるのだ、とも思う。
「編集者は黒子」という発言は直接聞いているし、
いつの号だったかは失念してしまったが、菅野先生と原田勲氏との対談の中でも、やはり語られている。

編集者は黒子であるべきなのか、黒子でいいのか、については、
当時は黒子の方が、いい結果を生んだように思う。
なまじ編集者が表に出しゃばったりするよりも、
役目と役割を共通に新規としてもっておられる方たちにまかせたほうがうまくいくように思うし、
事実、うまくいっていた。
もちろん、そこに編集者の役割がなかった、というわけではないし、
編集者は黒子としての役割を果してきたとは思う。

だが、岩崎先生が1977年に、五味先生が1980年に、瀬川先生が1981年に亡くなり、
菅野先生も不在のいま、編集者が黒子でよかった時期は、とうに過ぎ去っている。

いまステレオサウンドに書いている筆者(菅野先生が不在のいま、オーディオ評論家という言葉は使わない)で、
「役目」「役割」をはっきりと認識して、果してきている人がいる、とは思えない。

上にあげた方たちのあとに、「役割」を意識していた人は、朝沼予史宏氏だと思う。

Date: 3月 19th, 2011
Cate: 五味康祐

「シュワンのカタログ」を読んだ者として

レコードを聴けないなら、日々、好きなお茶を飲めなくなったよりも苦痛だろうと思えた時期が私にはあった。パンなくして人は生きる能わずというが、嗜好品──たとえば煙草のないのと、めしの食えぬ空腹感と、予感の上でどちらが苦痛かといえば、煙草のないことなのを私は戦場で体験している。めしが食えない──つまり空腹感というのは苦痛に結びつかない。吸いたい煙草のない飢渇は、精神的にあきらかに苦痛を感じさせる。私は陸軍二等兵として中支、南支の第一線で苦力なみに酷使されたが、農民の逃げたあとの民家に踏み込んで、まず、必死に探したのは米ではなく煙草だった。自分ながらこの行為にはおどろきながら私は煙草を求めた。人は、まずパンを欲するというのは嘘だ。戦場だからいつ死ぬかも分らない。したがって米への欲求はそれほどの必然性をもたなかったから、というなら、煙草への欲求もそうあるべきはずである。ところが死物狂いで私は煙草を求めたのである。(「シュワンのカタログ」より「西方の音」所収)
     *
五味先生の、この文章はしっかりと記憶している。
それだけつよい印象だったからだ。

だから、嗜好品よりも、被災地には先に送るべきものがある、ということは頭ではわかっていても、
こういう状況だからこそ、嗜好品の必要性をどうしても思ってしまう。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・井上卓也氏のこと)

井上先生が「ステレオサウンドの一人勝ち」をよくないことと考えられていたのは、
いまにして思うと、オーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)の「役目」と「役割」について、
言葉にしては出されなかったものの、井上先生の中にはなんらかの想いがあったのかもしれない。

いまオーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)は、「役目」についてはっきりと認識しているのだろうか。
これは、ステレオサウンドが、とか、オーディオベーシックが、とか、その他のオーディオ雑誌を含めて、
ぞれぞれが個別に考えてゆくものでもあるし、全体としての共通認識としてもっていなければならないもの。
そのうえで、それぞれの「役割」を考えていくもの。

オーディオ雑誌の「役目」を共通認識としてもち、
それぞれのオーディオ雑誌が、それぞれの「役割」をになっていく。

井上先生は、こういうことを言われたかったのかもしれない。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: Kate Bush

名曲とは(THIS WOMAN’S WORK・補足)

5月16日に、ケイト・ブッシュの「DIRECTOR’S CUT」がリリースされる。

「DIRECTOR’S CUT」の名のとおり、ケイト・ブッシュによって、
「THE SENSUAL WORLD」と「THE RED SHOES」からの選曲によるもので、
一部は再録音をしている、らしい。

「THIS WOMAN’S WORK」は「THE SENSUAL WORLD」に収録されているから、
「DIRECTOR’S CUT」でも聴ける可能性は高いと思っている。

「DIRECTOR’S CUT」は通常のCDのほかに、
「THE SENSUAL WORLD」と「THE RED SHOES」のリマスターCDを加えた3枚組、
それにLP(2枚組)、という3つのパッケージでの予定。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・補足)

今日(3月18日)の川崎先生のブログを読んだ。

そこに、
〝真に「命がけ」、平成の特攻隊という比喩は不謹慎ではありません〟
と、ある。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを聴いて、
送り出す側の音楽、送り出される側の音楽、と書いたのは、
そういうことである。

Date: 3月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その1)

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。

ベートーヴェンの後期の作品もそのとおりだと思う。

五味先生は戦場に行かれている。
高射砲の音によって耳を悪くされた。
そして焼け野原の日本に戻ってこられた。
レコードもオーディオ機器も焼失していた。

そういう体験は、私にはない。

だからどんなに五味先生の文章をくり返し読もうと、
そこに書こうとされたことを、どの程度理解、というよりも実感できているのかは、
なんとも心もとないところがある。

五味先生が聴かれていたようにはベートーヴェンを聴けない──、
これはどうすることもできない事実であるけれども、
そこになんとしても近づきたい、
近づけなくとも、同じ方向を視ていたい、と気持は決して消えてなくなるものではない。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ(30、31、32番)を聴いた。
2日前のことだ。イヴ・ナットの演奏で聴いた。

これらのピアノ・ソナタを、なまなかな状態で聴いてきたことはなかった、と自分で思っていた。
けれど、「いま」聴いていて、いままでまったく感じとれなかったことにふれることができた。

送り出す側のための音楽でもあり、送り出される側の音楽だと思えた。

五味先生の「日本のベートーヴェン」をお読みになった方、
ベートーヴェンの音楽をなまなか状態では決して聴かない人には、これ以上の、私の拙い説明は不要のはずだ。

Date: 3月 16th, 2011
Cate: Kate Bush, 言葉

名曲とは(THIS WOMAN’S WORK)

はじめてきいたときは、まだステレオサウンドにいた。
昼休みにほぼ習慣となっていたWAVE通い。
CDの置かれている棚には、まったく予想していなかったケイト・ブッシュのシングルCDが並んでいた。
「THIS WOMAN’S WORK」だった。
すぐに会社に戻りヘッドフォンで聴く。涙が出た。

今朝(といっても昼近くに)、ふと聴きたくなった。

また涙が出た。
最初に聴いたときの涙とは違う涙が出た。
「THIS WOMAN’S WORK」の歌詞が、あのときと「いま」とでは心に響いてくる意味が違っているからだ。
20数年を経て、心にしみこんでくる。
20数年前とは違う、心の別のところにしみこんでくる。
こういう音楽こそ、(使い古されたことばだけど)名曲ではないか。

こまかい説明はしたくない。
THIS WOMAN’S WORK」のwomanをほかの単語に置き換えてみても、この歌詞は通用する、とだけいっておく。

[THIS WOMAN’S WORK]
Pray God you can cope
I stand outside this woman’s work,
This woman’s world.
Ooh, it’s hard on the man
Now his part it over
Now starts the craft of the father.

I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things I should’ve said
That I never said,
All the things we should’ve done
That we never did,
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go,
Make it go away.

Give me these moments back
Give them back to me
Give me that like kiss
Give me your hand.

I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things we should’ve said
That we never said.
All the things we should’ve done
That we never did
All the things that you needed from me
All the things that you wanted fro me
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go away
Just make it go away now.

(内田久美子氏による和訳)
うまくやっていけるように神に祈りなさい
私はこの女の務めを
この女の世界を外側から眺める
そう 男にとってはつらいこと
いま 彼の役割は終わり
父親としての仕事が始まる

あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて

あの時間を取り戻して
私に返して
あのささやかなキスをちょうだい
あなたの手を貸して

あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて

Date: 3月 15th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 菅野沖彦

ベートーヴェン(菅野沖彦氏の音)

2005年の6月から8月にかけての約2ヵ月のあいだに、菅野先生の音を3回聴く機会があった。
ステレオサウンドで働いていたときでさえ、こう続けざまに聴けることはなかった。

最初は私ひとりでうかがった。だからリスニングルームには、菅野先生と私のふたり。
2回目と3回目は二人の方をお連れしてうかがったので、4人である。

お客様に音を聴いていただくときは3人を限度としている、と菅野先生が言われていたことを何度か聞いている。
人がはいれば、そのだけ音は吸われる。
菅野先生がひとりで聴かれる音と、ひとりでも誰かがそこに加わった音は、微妙に違ってくる。
ひとりがふたりになり、ふたりが三人になれば、それだけ音の違いもより大きくなってくる。

厳密にいえば、たとえひとりでうかがっても、
菅野先生がひとりで聴かれているときとまったく同じ音は聴けない道理となる。
それでもひとりでうかがったときの音は、菅野先生がひとりで聴かれている音とほぼ同じといってもいいはず。

わずか2ヵ月のあいだで、菅野先生をいれてふたりのときの音、
4人のときの音(これは2回)をたてつづけて聴いて、
菅野先生が、3人が限度と言われているのが理解できる。

もちろん菅野先生の音も毎日同じわけではないし、
うかがうたびに音は良くなっているけれども、この2ヵ月のあいだの変化は、
とくに前回(私がひとりでうかがったとき)から何も変えていない、と言われていたから、
その差は、ほぼ無視してもいいだろう。

となると、私は菅野先生のリスニングルームにおいて、人が増えたときの音の差を確実に実感できていた。

どこがどう違うのかについてはふれない。
言いたいのは、私がひとりでうかがったときの音と、3人でうかがったときの音は、まったく同じではない。
音のバランスに微妙な違いはあったし、ほかにも気がついたことはある。
だが、どちらの音も、見事に菅野先生の音であったということ、を強調しておきたい。

あれだけ細かい調整をされていると、往々にして人がふえていくことに極端に敏感に反応して、
音が大きく崩れることも、ときにはある。

そんなひ弱さは、菅野先生の音にはなかった。そんな崩れかたはしない。
つまり音の構図がひじょうに見事だからだ。

Date: 3月 14th, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(3月11日以降のこと)

3月11日は、奇しくもステレオサウンド 178号の発売日でもあった。
編集長が変って新体制になっての最初の号である。

このことをどう捉えるのか、単なる偶然としてさっと流してしまうのか、
それともそこに何かの意味を考えるのか……。

オーディオ雑誌(はっきりいえばステレオサウンド)は、
3月11日以降のオーディオのあり方について、どう考えているのか、
そしてそのことをどう編集方針へと転換して誌面へ展開していくのか。
それとも6月に発売予定の179号では、お見舞いの言葉を述べるだけなのか。

はっきりと書けば、ステレオサウンドはすでに役目を終えた雑誌だと思っている。
菅野先生が不在のいま、ほんとうに終った、と思う。

それでも179号以降で、今後のオーディオのあり方について、
模索しながらでもいい、なにかをはっきりと提示していくことができれば、
ステレオサウンドは復活できるとも思っているし、
こういうことを書きながらでも、心のどこかには復活を望んでいるところは、やはりある。

でも何も提示できない、どころか、それ以前に、これからのオーディオのあり方について何も考えていなければ、
ステレオサウンドにはジャーナリズムはまったく存在しない、ともいおう。

これは編集部に対してのみ言いたいことではない。
ステレオサウンドに書いている筆者に対しても、だ。

これまでと同じようなことしか書けないのであれば、考えつかないのであれば、
「役目」を果しているとはいえない。

ステレオサウンド編集部と筆者とで、いますぐにでも、3月11日以降のオーディオのあり方について、
真剣に議論しあい、すでに役目を終えた形ではない、これからの「かたち」を生み出してほしい、と思う。

Date: 3月 13th, 2011
Cate: オーディオ評論, 岩崎千明

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(岩崎千明氏のこと)

岩崎先生は、ジャズを聴かれていた。
そのことは文章を読めば伝わってくる。

それはなにも、岩崎先生の文章のなかに、ジャズに関係する固有名詞が登場するからではなくて、
文章そのものが、ジャズでもあったと感じていた。

この点が、クラシックもジャズも聴かれる菅野先生との違いのひとつでもあったと思うし、
だからこそ、ジャズの熱心な聴き手ではない私なのに、岩崎先生の文章を読み終えると、
ジャズが無性に聴きたくなっている。
それは岩崎先生の文章には、ジャズをオーディオで聴く面白さと楽しさがあるからだ。

ステレオサウンドを、オーディオ評論を築き上げてきた人たちは、
岩崎先生を除けばクラシックを主に聴かれる方ばかりだった。
クラシックでもなくジャズでもなく、ロック、ポップスをメインに聴く人は次の世代になってあらわれてきた。

いまのステレオサウンドに執筆している人たちは、
クラシック以外の音楽をメインに聴く人の方が多いようにみえる。
音楽の多様性からみれば当然のことだろう。

だが、岩崎先生のような人がひとりでもいるだろうか、と思う。

つまり文章そのものがジャズであったように、
ロックそのものが伝わってくる文章を書いている人は、いるだろうか(少なくとも私にとっては、いない)。

その文章からロック、ポップスに関する固有名詞を取り去ったあとでも、
ロックを感じさせてくれる文章を書けるオーディオ評論家の登場は、期待できるのだろうか。

それとも、単に私のロックに対するイメージが古すぎるだけなのだろうか。

Date: 3月 12th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(井上卓也氏のこと)

2000年12月10日に、井上先生が亡くなられた。
その数ヵ月前に電話で話す機会があった。

私が audio sharing をやっていることはご存知で、「いいことやっているじゃないか」と言ってくださった。

井上先生は、ステレオサウンドだけを執筆の場とされていたわけではない。
サウンドレコパル、それにリッスン・ビュー(のちのサウンドステージ)にもよく書かれていた。

「ステレオサウンドが一人勝ちすると、オーディオ界にとってはよくないことだ」
そういう主旨のことを話されていた。
それぞれのオーディオ雑誌がそれぞれの役割をもって成り立つことが、
オーディオ界のためになることだから、依頼があれば応じる、という姿勢を一貫してとおしてこられた。

だからなのか、電話を切るときに「がんばれよ」とも言ってくださった。
私が聞いた井上先生の最後の言葉だ。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その16)

この問題については、別項の「Noise Control/Noise Design」にて、これから書いていくけれど、
簡単にふれておくと、
スピーカーシステムの、ある種の固有音(Noise)は、
録音の不備による欠落した情報をときとして補っている可能性がある、ということ。

スピーカーシステムが発するNoiseすべてが、そうだというのではない。
だから、基本的にはノイズ(雑音)を少なくしていく方向は、正しい。
とはいうものの、オーディオにおける録音系・再生系、そのどちらにもなにひとつ完璧なモノは存在しない。

完璧なモノが、もしひとつでも存在していれば、これを基本・基準にしてなんらかの推測が成り立つとは思うが、
結局のところ存在しない以上,すべては憶測にすぎない、ともいえる。

そういう世界で、われわれはオーディオについて、音について考え、語っているわけだ。

私のNoiseに関して、これから先書いていくことは、直感によるところが多くなるはずだ。
Noiseを、いまのまま抹消していく方向で進んでいくのであれば、
そこにあるのは、ひじょうに味気ない、そして奇妙な世界なのかもしれない。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その15)

グールドのゴールドベルグ変奏曲を、肉体を全く感じさせない音で、
しかもアップライトピアノで弾いているふうに聴かせたスピーカーシステムのほうが、
私がいいと思っているスピーカーシステムよりも、忠実度の点では優れていると仮定しよう。

つまり、私が、ほかのスピーカーシステムで聴いたときに感じた演奏者の肉体、
それからグランドピアノと感じた音は、じつはそのスピーカーシステムの固有音によってつくられたもので、
実際には、録音にそういう要素は含まれていなかった、と考えることも可能だ。

グールドが弾いたピアノはヤマハCF、もちろんグランドピアノだが、
録音の不備で、じつはアップライトピアノのような音で収録されていた。
ピアニストの肉体などというものは、マイクロフォンでは捉えることができない。

そんなことが、ほとんど脚色されずにストレートに再生されたために、
肉体のない音、アップライトピアノのような音に聴こえただけであって、
スピーカーシステムに欠陥がないばかり、むしろ非常に優秀といえるし、それだけ新しい時代のモノでもある、と。

マスターテープにどんな音が収録されているのかは、じつのところ誰にもわからない。
録音している人も、完全にわかっているわけではない。
マイクロフォンがとらえている音に関しても同じだ。

だからこそ、上に書いたような考え方もできる。
そんなことはない、と私は思っているけれど、でも、それを実証することはできない。
そういう可能性は、ある。

私が欠陥スピーカーと思っているスピーカーシステムの鳴らす世界こそ、正しいものだとしても、
それでも、私が、そういうスピーカーシステムを選びはしない。
どんなにそれが正しい、としても、
グールドのゴールドベルグ変奏曲をあんなふうに鳴らされるのは、おかしいと、判断する。

私が、ゴールドベルグ変奏曲を、肉体を感じさせる音でグランドピアノで弾いている音を、正しい音とする。

Date: 3月 10th, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その11)

スピーカーシステムの後側の壁面が大きなガラスだったら、
ほとんどの人が嫌がるだろうし、実際ガラスとの距離がそれほど確保できない場合は、そのままでは耳障りになる。

ジャーマン・フィジックスのDDDユニットが、
ほかのスピーカー(つまりピストニックモーションによるもの)と大きく異るのは、まずここだ。
水平方向には無指向性があるから、ガラスのような反射壁に近づけたら、
フロントバッフルにのみスピーカーユニットがある通常のものよりも、
ガラスからの反射が多くなりよけいに耳障りな響きがのってくる、と思いきや、
実際には響きが豊かになるけれど、耳障りな響きが増すわけではない。

推測にしかすぎないが、
おそらくDDDユニットから放射されている波面がきれいに広がっていっているためだと思っている。

水面に石を落す。
波紋がきれいに広がっていく。石を複数落していくといくつもの波紋ができ、ぶつかりあう。
ぶつかることで波紋が乱れるかといえば、そんなことはない。

DDDユニットを壁にぐんと近づけても、いやな響きがのりにくいのは、このことと関係している気がする。
おそらくDDDユニットから放射される音の波面を真上からみたとしたら、
水面にできる波紋と同じようにきれいに広がっていっているのだろう。

乱れがない(極端に少ない)から、壁に当っても反射されてくる波面も乱れが少ない。
だから壁の素材の固有音に起因するいやな響きがのりにくい。
私は、そう考えている。

まわりの壁の影響を受けやすいスピーカーは、波面の乱れが大きい(汚い)せいではないのか。