シフのベートーヴェン(その1)
「待ち遠しい」というタイトルで、
アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集Vol.8についてふれた。
輸入盤が入荷したその日に購入した。
待ち遠しかったCDだけに、帰宅後、すぐに聴いた。
待っている間に、聴き手の勝手な期待はふくらんでいく。
そのふくらんだ期待を、シフの演奏はまったく裏切るところがない。
なんと優秀な演奏だろう、と思って聴いていた。
聴いていて、ほかのベートーヴェンのアルバムとすこし違う気がしてきた。
それがなにかははっきりとそのときはわからなかったが、後日、ある記事を読んでいたら、
このVol.8だけスタジオ録音だということだった。
アンドラーシュ・シフのECMでの録音は、たしかすべてライヴでの録音だ。
もちろんベートーヴェンの最後の3曲のピアノ・ソナタもコンサートで演奏しているはずだし、
それを録音をしているはず。
にもかかわらず、あえてスタジオ録音で入れ直している。
このことを知る前に、実は感じていたことが、もうひとつある。
それを確認したくて、シフのベートーヴェンのあとに、
内田光子の演奏を聴き、グールドのモノーラル盤も聴いた。
ほかのピアニストの演奏も聴くつもりでいたが、このふたりの演奏を聴いてはっきりと気づいた。
シフのベートーヴェンの、それも最後の3曲には、「ないもの」があるということだ。
しかも、その「ないもの」があることによって、ややこしい話だが、ほかの演奏にはないものがある、といえる。
私は、いまのところベートーヴェンの、30番、31番、32番には、
シフの演奏には「ないもの」を求めている。
だからシフによるこの3曲のピアノ・ソナタは、私にとっては優秀な演奏で満足するところはありながらも、
その「ないもの」を意識することになる。
五味先生が、ポリーニのベートーヴェンのソナタを聴かれて、激怒されたのとはまったく違う。
こういうことを書きながらも、シフの演奏は優秀だ。
だが私の勝手な憶測にしかすぎないが、シフも、その「ないもの」を気づいていたのかもしれない。
そうでなければ、なぜ、あの3曲だけ、誰もいないスタジオで録音しなおしたのか。