Archive for 1月, 2013

Date: 1月 26th, 2013
Cate: Jacqueline du Pré

68th birthday

10代なかばのころ、ジャクリーヌ・デュ=プレのことを知ったとき、
ずっと年上の人のように感じた。
18違う。

デュ=プレとの年の差は、そのときの私の年齢よりも多い数字だった。

1月26日は、ジャクリーヌ・デュ=プレの68回目の誕生日である。
デュ=プレの誕生日は忘れることはない。
だからfacebookのデュ=プレのページに、
今日が誕生日、ということが表示されても、
そうだ、今日だったんだ、とは思いはしない。

“Today marks Jacqueline du Pré’s 68th birthday. Happy birthday to Jackie!”
ここに「68」という数字を見てしまうと、
あのころとは違って、まだ68なんだ、とおもってしまう。

18の年の差は変わらない。
けれど相対的に、その差は縮んでいくことは、よくいわれることでもあるが、
そのことをしみじみと実感していた。

デュ=プレが多発性硬化症にかからなければ、
あのまま健康でいたとしたら、もしかするとデュ=プレは指揮者として活動していたかもしれない──、
そんなことを10年ほど前から夢想している。

チェロを弾いている、とおもう。
でも、彼女の豊かな音楽性と表現力はチェロだけにはとどまらなかったようにも感じられる。
だとしたらオーケストラを指揮していたようにおもう。
指揮してほしかった、という気持が強いから、そうおもうだけなのかもしれないけれど、
カザルス、ロストロポーヴィチも指揮者でもあった。
デュ=プレが指揮者になっていても、私のなかではすこしの不思議もない。

1年後の今日も、2年後の今日も、これから先、同じことをおもいだしてしまうことだろう。
今日よりは1年後、1年後よりは2年後……、
デュ=プレの指揮がどういう音楽を生み出したのか、を、すこしでも描けるようになれれば、
それでいい。

デュ=プレの指揮を、すこしでも鮮明に描けるようになるための音を求めているのかもしれない。

Date: 1月 25th, 2013
Cate: plus / unplus

plus(その1)

アクースティック蓄音器の誕生をオーディオの始点とすれば、
ここにいたるまでの時代時代で、
何かが足されてきていることで、変化、発展してきている。

まず電気というエネルギーが加わった。
はやい時期での、足されたものだった。

電気というエネルギーを利用するための具体的なかたちとしては、アンプとスピーカーが加わり、
機能としては、音量調整が加わる。

アクースティック蓄音器には音量の調整すらできなくて、
機能と呼べるものはなかったのに対して、
電気蓄音器の時代にはそれ以降、さまざまな信号処理が可能になっていった。

SPはマイクログルーヴと呼ばれる細い溝のLPに変り、
収録慈顔が大幅に伸びたことは、これも時間が加わった、といえることであろう。

LPでは、さらにそれまでのモノーラルからステレオへの変化があり、
このことはモノーラル(1チャンネル)に、1チャンネルが新たに加わったことである。

プログラムソースに関しても、幾つもが加わった。種類が加わり、増えていった。
無線による放送、家庭での録音を可能にしたテープデッキ、
それをコンパクトにし手軽に扱えるようにしたコンパクトカセットテープの登場は、
音源の追加だけでなく、便利ということを、
オーディオにプラスしたともいえよう。

そしてデジタル信号処理が、
1970年代になり、オーディオにプラスされた。
1982年にCDが新たなプログラムソースとして登場した。
CD以降も、プラスされたもの・ことは、まだまだある。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その2)

再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的なエレクトロニクスの進歩の耳に馴れた吾人が、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
     *
これは五味先生が、ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」に書かれていることである。
たしかに「トーンクォリティは演奏にまだ従属」している。

従属しているからこそ、クラシックのCDでは、いまだ復刻盤が新譜のように発売され、店頭に並ぶ。
昨年末、ふたつのレコード店のクラシックCDの売上げがウェヴサイトにて公表された。
ひとつはHMV、もうひとつは山野楽器銀座店である。

どちらもクラシックのCDの売上げなのに、そこに並ぶタイトルは重なっていない。
HMVに関しては、ブリュッヘン/18世紀オーケストラにベートーヴェンの新録をのぞけば、
他はすべて復刻盤、
もしくはいまだCD化されていなかった音源(バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのマーラーの九番)、
山野楽器では日本人演奏家のCDが目立つし、多くが新録音の新譜である。

山野楽器の売上げは銀座店のみであり、
HMVの売上げはオンライン通販のものである。
つまり片方は銀座という街に来る人による売上げであり、
他方は日本全国の人による売上げ、といえよう。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 世代

世代とオーディオ(その2)

私は1963年生れだから、主となるプログラムソースはレコード、
つまりアナログディスク(LP)だった。
カセットテープも使っていたけれど、あくまでも買いたいレコードを、
そうたやすく買えるわけではなかったから、その代りとしてのカセットテープであり、
カセットテープでの録音・再生にそれほど夢中になることはなかった。

一通りの知識はもってはいても、
アナログプレーヤーにあれだけのモノを購入したのにくらべると、
カセットデッキは普及クラスの製品を買うに留まっていた。
ナカミチの1000ZXLの音については、
実際に聴いているから知ってはいたものの、欲しい、という気はまったく起きなかった。
あり余るほどのお金があったとしても、カセットデッキにあれだけのモノを買おうとは思わない。

それは価格の点ではなく、カセットテープを聴くのに、あれほど大袈裟な機械を使おうとは思わないだけであり、
カセットテープに対しての思い入れもないからである。

それにナカミチのカセットデッキには、これは欠点ではないものの、
他社のカセットデッキにくらべて、ひとつまずい(ずるい)点があることも確かである。

カセットテープに録音する。
その録音ずみのテープは自分でのみ聴くこともあれば、誰かに渡すこともある。
それに自分だけで聴くにしても、リスニングルームにて録音したカセットデッキで再生することもあれば、
リビングルームでラジカセで、車のなかでカーオーディオで聴くことだってある。

つまり録音した機器で必ずしも再生するわけではない。
ナカミチのカセットデッキは、音の良さ、性能の高さなどで知られている。
ナカミチのカセットデッキで録音したテープをナカミチのカセットデッキで聴く分には、
たしかに、ナカミチのデッキだけのことはあるな、とおもわせる。

けれど他社製のカセットデッキで再生した場合、首をかしげたくなることがある。

どんなデッキでも録音したデッキで再生することが、いい音で鳴ることが多いけれど、
そこには程度ということがあり、それがあまりにも極端であることは、
テープというメディアを考えた場合には、好ましいこととはいえない。

このところが、ナカミチのカセットデッキは、他社のデッキよりも極端であったと感じられた。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その10)

ステレオサウンド 41号
井上卓也「私の考える世界の一流品
菅野沖彦「コンポーネントステレオにおける世界の一流品をさぐる
瀬川冬樹「私の考える世界の一流品

ステレオサウンド 49号
井上卓也「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって
菅野沖彦「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって
瀬川冬樹「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

上記は、私のもうひとつのブログ、the Review (in the past)で公開している、
それぞれの文章へのリンクである。

41号での文章、49号での文章、それぞれ読み比べてほしい。

あたりまえすぎることだが、41号での文章の時点では、
2年後に”State of the Art”について書くことになろうとは誰ひとりとして知るはずはない。
49号での文章では、41号での文章のことが、それぞれの人の頭の中にはあたったこととおもう。

49号での「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」のなかで、
41号の「世界の一流品」についてすこしでもふれられているのは、瀬川先生だけではあっても、
それぞれの”State of the Art”の解釈から、一流品との違いが読みとれよう。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その8)

オーディオ機器はそれぞれ具象的な存在であっても、
それらの集合体から出てくるのは具象的な存在ではない音である。

音には目に見える形はない(だからといってかたちがないわけではない)。
抽象的であるからこそ、捨象も要求されるわけだが、
このことについては別項「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」でふれているところだ。
だから、ここではふれないが、音楽もまた抽象のものである。

けれど、音楽には歌がある。
歌は言葉によってうたわれる。
歌は、それも母国語(つまり日本語)でうたわれる歌は、
音楽の中における具象ともいえる。

だから、歌(私にとってはグラシェラ・スサーナによる日本語の歌)が、
最初の重要な、音の判断基準となっていった。

これがもし、クナッパーツブッシュの「パルジファル」のLPを、
このLPの存在を知ったばかりの15歳のころに買っていたとしたら、どうなっていたであろうか。

背伸びしたい年ごろである。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴いて、
なにもわからずに「これがバイロイトの音なのか」などと思っていたかもしれない。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その24)

1970年代、菅野先生の録音で知られるオーディオラボから「SIDE by SIDE」というレコードが登場した。
シリーズ化された「SIDE by SIDE」は4枚出ていたと記憶している。

「SIDE by SIDE」はシリーズを通して、
A面はベーゼンドルファー、B面はスタインウェイによる演奏を録音している。
だから「SIDE by SIDE」のレコードを再生するにあたっては、
A面とB面とではピアノの音色の違いがどれだけ明瞭に出てくるのかが、大きなポイントでもある。

録音もベーゼンドルファーとスタインウェイという、ふたつのピアノの特質をよくとらえているからこそ、
その再生にあたっては、A面とB面とで、同じピアノが鳴っているように聴こえてしまっては、
再生装置による色づけが支配的ともいえなくはない。

自分にとって心地よい音が出てくれればそれでいい、という人もいる。
その気持はわかる。
オーディオが醸し出す音色には、うまくいくと実に心地よいものとなる。
ときに、その心地よい音色におぼれていたくなる(つつまれていたくなる)ことは、私にもあった。

でも、聴きたいのは最終的には音楽である。
音楽を聴く以上は、音楽を構成する音色に対して忠実でありたい。

完璧な状態で鳴らすことは、いまのところ無理なのはわかっていても、
それでもピアノはピアノらしく、ヴァイオリンはヴァイオリンらしく鳴った上で、
さらには同じピアノでもベーゼンドルファーはベーゼンドルファーらしく、
スタインウェイはスタインウェイらしく鳴ってくれなければ、私はこまる。

Date: 1月 23rd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その9)

岡先生によれば、「db」誌の創刊は1967年11月で、
創刊号の表紙いっぱいを”The State of the Art”という文字で飾っていた、とのこと。

1977年11月号で創刊10周年を記念して「db」誌は、「その後のステート・オブ・ジ・アート」特集を行っていて、
その特集を読めば、アメリカの、それもオーディオ界で”State of the Art”にどんな意味付けを、
そこに行なっているかということがわかる、と書かれている。

「db」誌の創刊10周年の特集でいわれていることを要約すると、
“revolutionaly break-through in sound technology”
(音響技術における革命的に壁を破ったもの)
ということになるようで、かなり狭い意味に限定されている、と岡先生はされている。

さらに例として、マーク・レヴィンソンによる見解(レヴィンソンは自社のアンプにこの言葉を冠している)、
「技術的に達成される最高のもの」もあげられ、両者に共通する技術を重視している点──、
つまり単なる名器とか逸品といった漠然たるものではなく、
「技術、とくに新しい技術がどのように高度に実現しているか」ということに大きな意味が、
そこに含まれている、とされている。

ここまでくるとステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」と
49号の特集「State of the Art賞」の違いがはっきりとしてくる。

このころのステレオサウンドには特集の最初のほうに、
各評論家による前書き・後書きにあたるものが必ず掲載されていた。

41号では「私の考える世界の一流品」、
49号では「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」というタイトルで、
選考された方々の”State of the Art”にたいする考え方・解釈について書かれている。

Date: 1月 23rd, 2013
Cate: audio wednesday

第25回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、2月6日(水曜日)です。

テーマは「アナログディスク再生について」を予定しています。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その8)

“State of the Art”をGoogleの翻訳サービスでみてみると、「最先端」と表示される。
なんともそっけない答である。

“state”は、状態、ありさま、様子という意味だから、
直訳すれば”State of the Art”は「芸術の状態」ということになるわけだが、
“art”を芸術というふうに単純にとらえれば、の話である。
このことは岡先生も指摘されていて、
英語の堪能な二、三のひとに訊ねてみても、
「ぴったりした日本語におきかえようがないのではないか」ということになったと書かれている。

最先端も”State of the Art”の意味のひとつではあっても、
最先端、と言い切ってしまえるわけでもない。

結局、”art”をどう解釈するのか。
岡先生は、愛用のランダムハウス英語辞典で、”art”の項をひかれている。
そこには、
exceptional skill in conducting any human activity
the craft or trade using these principles or methods
という解もある、とのことだ。

オーディオの世界における”State of the Art”の”art”はそういう意味とするべきなのであろう、とされ、
さらにつづけて、もうひとつの手がかりとして「db」という音響エンジニア向けの専門誌をあげられている。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: 数字

数字からの解放(その3)

マーク・レヴィンソンは、とにもかくにもマークレビンソン・ブランドで出すアンプのスペックに関しては、
最少限の項目(入力インピーダンス、出力、消費電力など)のみの発表にしてしまった。

だからといって測定を行なっていないわけではない。
このころのマークレビンソンのアンプはモジュール形式を採用していたから、
おそらくモジュールができ上がった時点で、一個ずつ測定しチェックしていただろうし、
さらにLNP2、JC2といったアンプとして完成させた時点でも、
不備や異状がないかを測定してチェックしていたであろうことは間違いないはず。

それにアンプの開発においても測定はしていた、と思う。
けれど、それらの測定データ(歪率、S/N比など)はいっさい公表しなくなった。
マーク・レヴィンソンが次に興したチェロにおいても、そういえば使用上必要な項目のみだった。

これは、思い切ったことだと思う。
LNP2やJC2の入出力端子を、一般的でもあり標準的なRCAタイプから、
CAMAC規格のLEMO製のコネクターに全面的に変更したときも、やはり思い切ったことであった。

RCAコネクターをやめ、それまでどこのメーカーも採用したことのないコネクターを採用するということは、
他のメーカーのオーディオ機器といっしょに使う場合には、
コネクターの変換プラグが必要となる。
それにマークレビンソンが採用したCAMAC規格のコネクターは線径の太いケーブルは使えない。
頼りないと感じるくらいの細いシールド線しか使えなかった。

いくつもの制約がありながらも、
マーク・レヴィンソンがCAMAC規格のコネクターの採用に踏み切ったのは、
コネクターにおける信頼性の圧倒的な向上であり、音質的なメリットであったはず。

この時代のマーク・レヴィンソンという男は、そういう人物であった。
(Mark Levinsonのカタカナ表記については、こちらを参照のこと)

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その7)

State of the Artとは、いったいどういう言葉なのだろうか。

私はステレオサウンド 49号にて、こういう言葉があるのを知った。
49号の特集の巻頭には、
岡先生による「Hi-Fiコンポーネントにおける《第一回STATE OF THE ART賞》の選考について」という文章がある。

岡先生も書き出しは、
「まず、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉から説明しなければなるまい。」とされている。

岡先生によれば、State of the Artという言葉がオーディオ界に入り込んできたのは、
1960年代になってきてからであろう、とされている。
「High Fidelity」誌のテストリポートに稀に、こういう言い回しがされるようになってきて、
実際には〝ステート・オブ・ジ・アートというに値する〟
〝オーディオ・テクノロジーのステート・オブ・ジ・アートの所産〟という使われ方で、
「ひじょうにすぐれた製品にたいする特別な意味あいをそこに含めて用いられていた」とのこと。

1970年代にはいり登場してきた「Absolute Sound」誌では、
推薦するオーディオ機器の最上級のものに〝ステート・オブ・ジ・アート〟級として用いて、
それ以降、ほかの雑誌でもこの言葉がさかんに用いられるようになり、
さらにはアメリカのオーディオの広告では濫用気味なほどにもなっていたらしい。

このころ、すでにSOTAという略語も登場し、ソタと発音するようになっている。

State of the Artの定義については、
ぜひステレオサウンド 49号の岡先生の文章をお読みいただきたいところだが、
もう30年以上前の本だけに、手もとにないという方も少なくないだろうから、
もうすこし岡先生の文章を引用しながら書き進めたい。

Date: 1月 22nd, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その6)

ステレオサウンド 41号の2年あとに出た49号で、
ステレオサウンドによる賞が始まっている。
49号でのState of the Art賞に選ばれているスピーカーシステムは下記のとおり。

●スピーカーシステム
 アルテック A5
 JBL D44000 Paragon
 QUAD ESL
 パイオニア Exclusive 3401W
 JBL 4350A
 JBL 4343
 ダイヤトーン 2S305
 ヴァイタヴォックス CN191
 チャートウェル LS5/8
 パイオニア CS955
 Lo-D HS10000
 ボザーク B410 Moorish

41号は41機種のスピーカーシステムだったのが、
名称が「世界の一流品」から「State of the Art」に変更になったのにともない選ばれたのは12機種。
1/3以下の数に減っているし、
41号ではヤマハのNS451をはじめ、
国産の比較的安価なブックシェルフ型もいくつか選ばれているけれど、
49号ではブックシェルフ型と呼べるモデルはない。

パイオニアのCS955はスタンドを必要とするタイプだけに、大型ブックシェルフと呼べなくもないけれど、
41号でのNS451、オンキョーM3、デンオンSC104といったブックシェルフ型を標準的なサイズとすれば、
CS955はセミフロアー型と呼びたくなる大きさである。

価格の面から見ても、
State of the Art賞に選ばれたスピーカーシステムで最も安価なのはQUAD・ESLの180000円(1本)と、
41号でのNS451の26500円とは大きな違いをみせている。

49号でのスピーカーシステムは、
41号から49号までに発表された新製品を除けば、当然とはいえ41号で選ばれたスピーカーシステムばかりである。

41号で選ばれ49号では選ばれなかったスピーカーシステムの一部は、
50号での旧製品のState of the Art賞で選ばれている。

参考までに50号でState of the Art賞に選ばれているスピーカーシステムは下記のとおり。
 エレクトロボイス Patrician 600
 JBL D30085 Hartsfield
 タンノイ Autograph
 KEF LS5/1A
 シーメンス Eurodyn
 ラウザー(ローサー) TP1
 AR AR3a
 JBL Olympus S7R

Date: 1月 21st, 2013
Cate: 数字

数字からの解放(その2)

アメリカは比較広告の社会であるから、
マークレビンソンの成功に刺戟され、雨後の筍のように登場したガレージメーカーの多くは、
広告において、「マークレビンソンと比較して……」という謳い文句を使っていた、ときいている。

マークレビンソンの当時のアンプはLNP2にしろ、JC2にしろ非常に高価なコントロールアンプだった。
マークレビンソン以降登場したアンプメーカーのほとんどは、
価格の面ではマークレビンソンのアンプよりも安価だった。

JC2とほぼ同価格のアンプはあっても、LNP2と同価格のアンプは、思い出そうとしても浮んでこない。
そういう、LNP2よりも安価なアンプが広告で「マークレビンソンと比較して……」をやる。

当然、そこにはマークレビンソンのアンプのスペックよりも優秀な値が並んでいたはず。

広告から音は聴こえてこない。
だからこそ広告では、もっとも比較しやすい数字を提示する。
これだけの高性能を実現しています、
けれどマークレビンソンのアンプよりもずっと安価です、
こんな広告がいくつも登場するようになっては、マーク・レヴィンソンのプライドはどうなっていっただろうか──。

ステレオサウンド 47号掲載のR.F.エンタープライゼスの広告を読んでから1年ほど経ったころ、
そんなことを私は考えていた。

マーク・レヴィンソンが、R.F.エンタープライゼスの広告で語っていたことは本心から、だとは思っている。
でも、それだけはなかったのではないか、とも思う。

あのころのLNP2、JC2はマーク・レヴィンソンの分身でもあったように思う。
そうだとしたら、レヴィンソンにとって、スペック上の数字とはいえ、
自分の分身よりも優秀な値を示すアンプがいくつも登場してきたことを認めたくなかった……。

そういう気持が皆無だったとは思えないのだ。

Date: 1月 20th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その11)

スピーカー端子が、Exclusive M5と同等のつくりになってくれれば、
どんなスピーカーケーブルであろうと、当時はしっかりと接続できたわけだが、
そんなことを期待していては、試聴という仕事はできないわけで、
なんらかのスピーカーケーブルの末端処理が必要となる。

私がステレオサウンドにいたころ、スピーカーケーブルはトーレンスのケーブルが標準となった。
これはマークレビンソンのHF10Cとほぼ同等の内容のケーブルで、
被覆の色・硬さに違いがあるくらいである。だから芯線が細く、その数が多く、太いケーブルである。

このトーレンスのケーブルが、
当時、いろいろあったスピーカーケーブルのなかでもっとも音質的に優れていた、というわけではない。
比較的癖の少ないケーブルで、どのようなパワーアンプに接続しても、
アンプの動作が不安定になるようなこともない。
そういう観点から自然と決っていった、といえるものである。

1980年代もなかばにはいると、アクセサリーとして末端処理用の製品がいくつか登場し始めた。
それらのいくつかを試したことは、もちろんある。
けれどどれも試聴室で使うには満足できるものがなく、結局、いくつか試行錯誤した結果、
ある方式に落ち着いた。

私が考えついた、この方式が完璧な末端処理とはいわないものの、
それでも音質的な変化は少なく、ほぼどんなスピーカー端子であっても確実に接続できた。
これは決して自己満足ではなく、
実はあるメーカーの担当者から、スピーカーケーブルの末端処理をどうしているのか、と訊かれたこともある。

井上先生が、その担当者に「ステレオサウンドの宮﨑にきけ」といわれたから、であった。