「私の考える世界の一流品」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 すぐれて独創的であり、しかも熟成度の高いこと。──これが一流品の条件といえるだろう。
 独創はとうぜん個性的である。がそれがもしもひとりよがりや勝手な思い込みであるなら、他人から高く評価されもしなければ、万人に説得力を持つはずもない。独創が一人合点でなく普遍の域まで高められなくては本物といえない。このことは、芸術であると大量に生産される工業製品であるとを問わない。たとえば音楽でも絵画・彫刻でも、芸術はほんらい個性のエキスのようなものだが、それが真に高い域に到達するとそれは年月を超越して広く世界じゅうの人に理解され支持され熱愛されるに至る。
 工業製品の場合、そして中でもオーディオやカメラや自動車のように、趣味としての要素の強い道具の中で一流品と認められるものの場合には、その成立までによく似たプロセスを経ることが多い。それは、最初の設計のきっかけが、商品を作るよりもむしろ原設計者自身の高い要求あるいは理想を満たすために作られる、というケースである。
 たとえばソウル・B・マランツが創り上げた初期の(モデル16までの)マランツのアンプやチューナーやレコード・プレーヤー。たとえばSMEのアーム。たとえばマーク・レビンソンのコントロールアンプ……。これらははじめ売ることを全く念頭に置かず、彼らがそれぞれにオーディオの熱烈な愛好家として最高のものを求めていって、市販品にその望みを満たす製品が見当らなかったところから、マランツが、エイクマン(SME)が、レビンソンが、彼ら自身で使うに値する最高の製品を作ろう、と研究にはげんだ結果のいわば〝作品〟なのだ。
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 ここまでなら何も彼らの例にかぎらず、日本にも個人でこつこつ努力して自分自身のための機器を製作する人たちが、少数ながらいる。しかしひとつだけ大きく異なるのは、いま例にあげた製品が、設計者自らのひとりよがりにとどまらず、同じ道を歩む愛好者であれば誰でも理解できる普遍性と、そして高い理想を抱く人をも満足させる性能の良さと、鋭い審美眼を持つ人をも納得させる洗練された美しさとを兼ね備えている、という点である。
 残念ながら私の知るかぎりで、日本人の作る製品の中に、優れた性能とデザイン、良い素材を精密に入念に仕上げた質感がもたらす信頼感や精密感、とうぜんのことながら眺め、触れた感触のよさ、しかもそれが永い年月に亙って持続するような、要するに重厚な魅力を持った本ものを、くり返すが残念ながら、日本人が作りえた例をきわめて少数しか知らない。はじめは良いと思っても、身銭を切って手許に置いて毎日眺め、触れ、聴いているうちに、どこかで馬脚を現わすようなのは本ものではない。
 そのことが、はじめに書いた一流品の条件の後半の、熟成度の高い、という意味になる。
 元来ある製品が生み出されたばかりの状態からすでに熟成しているということは少ない。ある思想あるいは理念がおぼろげながら形をとってくる。それを生んだ人間自身が、やっと生み出したという直接の感激が薄れるまでじっと温める。やがてそれをできるかぎりの冷静で客観的な目で批判しながら、欠点に改善を加え、少しずつ少しずつ、永い時間をかけて仕上げてゆく……。こういうプロセスを経ないで、いきなり完熟した製品が生まれるというようなことは、例外的にしか起りえないと断言してよい。天才はそうざらにいるわけではないのである。絵画や音楽や文学でも、ひとつの作品に作者が少しずつ手を加え完成してゆく。まして作者の直接の手を離れてある部分は鋳造されある部分は機械加工されある部分は塗装されメッキされ……、何十人もの人手によって組み立てられる工業製品に設計者(性能・意匠を含め)の個性が、反映されるまでには、たいへんな手間と時間が必要である。
 そうするとこれも再び残念のくり返しになるが、今日の日本の商品の作られ方、売られ方を前提とするかぎり、優れた素質を侍って生まれた製品でも、その後の熟成期間を持つことのできるといった理想的な例はやはり極めて少数といえそうだ。
 今日のように技術革新の激しい時代に、ひとつの製品を何年も温めていては新製品の開発などできない、という理屈がある。一見もっともだが、それなら、いま我々の使っているオーディオ機器のたとえばターンテーブルでもアンブでもスピーカーでも、ひとつのプロトモデルをすっかり水に流してからやり直さなくてはだめなほどの根本的な開発というのが、二年や三年で完成したかどうか。過去の例をふりかえってみれば明らかだろう。たとえばアンブのコントロールパネル面など、全面的にデザインを新しくしなければならないほどのことは生じていない。
 熟成──とは、別のことばでいえば、完成度の高いこと。それは隙のなさであり、バランスの見事さであり、密度の高さでもある。それには小改良の積み重ねが必要で、とうぜん年月が必要だ。それは即席(インスタント)とか、平均化とか、中庸とか没個性とか多数決などという態度から正反村のところにしか生まれない。ひとつの製品にどんどん手を加えながら、設計者のいわば理念を反映させてゆくような、そんな作り方のつみ重ねがなくて、一流品など決して生まれてくるはずがない。
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 優れた設計者(あるいは設計者たちでもよいが)が、永い年月をかけてひとつの製品と対話しながら手を加えたような製品なら、そこに自ずから一種の気持のゆとりが込められる。それがいわゆる風格になり、見るものにどこか洗練された感覚と質の高さを伝える。それはとうぜん所有欲を刺激する。
 こういう製品になると、それを所有することによって所有者は何か心の高まりをおぼえる。優れた製品はそれを所有する者の精神を刺激し精神活動を活発にする。それはいわば設計・製作者と所有者との対話ともいえる。それを持つ者の考え方や感受性に影響をおよぼすほどの製品こそ、真の一流品ではないか。
 製作者がひとつの製品に込める時間が長ければ、それを所有する人間がその製品をほんとうに理解するのにもある程度の年月はかかるのが当然だ。ある製品を購入する。それが長期に亙る比較検討の結果でも、あるいは直観的な衝動買いでも、むろんその良さが理解できたから身銭を切るのだが、本ものの一流品はそこから先がまだ深い。いわゆる汲めども尽きぬ魅力を永い年月に亙って持続させる。毎日それを使い、眺め、触れ、聴き、いじりまわしたり磨いたりして少しも飽きないという製品が、数少ないながら確実に存在する。とすると、本ものの魅力が永続きする、というのが結果論としての一流品の定義ともいえそうだ。
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 魅力、という話になるとそこにもうひとつ、これはいままでの話と直接の関係はないがエキゾチシズムの魅力、という要素を無視はできないように思える。我々日本人がいわゆる舶来ものに国産品と一味違う魅力とあこがれを多少なりとも抱くと同じに、欧米人たちがH本の製品を、我々が驚くような羨望の目で見つめることが多い。これは国を問わずおよそ人類に共通の感覚なのだろう。
 それだから国産品に魅力がないなどと短絡的な結論を出すつもりは毛頭ないので、再びはじめの定義に戻っていえば、すぐれて個性的で熟成度の高い、そして本ものの魅力の永続きするような本当の意味での一流品となると、十も二十もあげられるような性質のものでなく、厳密にいえばおそらく五指に満つか満たないか、ということになってしまいそうだ。
 実際の話、最初に一流品選出のテーマをもらったとき絞っていった結果は、せいぜい数機種の製品に止まってしまった。今回最終的にあげた数十機極は、それよりもう一段階枠をひろげて、いわば一流品としてこうあって欲しいというような願望までを含めてリストアップしたので、名をあげたもののすべてが無条件で一流品というわけではないことをお断わりしておきたい。

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